　どうせやるなら効率的に、というのが茨の持論だった。計画的に遂行されたことでも、予期せぬ流れで起こり得たことでも。それは転んでもただでは起きない精神が転じたものには違いないが、単に性分でもある。
　星奏寮で不便を感じたことはあまりない。富豪の如き好待遇であった秀越学園には劣る部分もあるが、環境は申し分なく、生活拠点と一体化しているがゆえの利便性も高い。好きな時間に稼働できるキッチンなんかがそうだ。部屋にも備え付けの設備はあるものの、共同生活なだけあって『好きな時間』に縛りが発生する。が、これは致し方ないことだろう。まあ、したらしたで食べてくれそうな顔は思い当たるが、背徳的な夜食に色めき立って廊下を猛ダッシュされても困る。元気が無尽蔵な少年の顔を思考から外した。
　時刻は夜も眠る丑三つ時。人の呼吸だけが鳴りをひそめ、冷えた閃光が星々を繋いでいる。無機質な照明の間を駈け抜ける悠然たる煌めきは、真昼の陽光に劣る気配もない。そんな夜空の足元で人工的な灯りはどこか肩身が狭そうに、それでも健気に夜道を照らすことを止めないようだった。その貪欲さはかえって好ましい。ただよう鶏ガラスープの香りにチャーシューと罪深さを乗せて、茨はいざなわれるようにため息を吐いた。
『ラーメンの特番に出ることになったんだ』
　その人が飄々と告げてきたのはつい二刻ほど前。
　だめかな、とかわいらしく小首をかしげてみせた当人に何を言ったところで暖簾に腕押しなのは目に見えている。良いか駄目かで問われたらどう考えても駄目に決まってるでしょうが。まあ、あのひとも駄目だと言われると思ってギリギリのタイミングを狙って断れないところを突いてきたようだけど、それにしたってギリギリで駄目な要素に拍車がかかる。健康の的。塩分の塊。平時でさえあまり褒められたものではないというのに。
「歓迎しないとはいえ、いくらでも対処のしようはあるんですよ。昼食に取り入れて夕食の炭水化物を控えめにするとか、糖質控えめの麺にするとか、ああもう自分だって頭ごなしに否定はしませんよ！　一日の食事をバランスよく終えて就寝を控えたこの時間の追加カロリー！　それが最高にいただけない！」
「……でも、撮影で初めて食べるっていうのも、ね？」
　なぁにが「ね？」だ。目を合わせると流されて絆されることは分かっているので、ひたすらその下の睫毛の影をねめつける。くそ、影すら麗しい。どうなってんだよこうも著しい人間の美醜格差は。
「撮影に行くくらいだから、味は保証されているのだろうけど。問題があるとまずいかなと思って。少なくとも、未知で無くする必要はある」
「だ・か・ら！　その未知を解消するにも手順ってもんがあるんです！」
「あと、深夜のラーメンは格別だってジュンがね」
「ジュ～ン？　明日のメニューは覚えててくださいね～？」
「……茨、鍋が噴きこぼれそう」
「話を逸らさない！」
　結局、なんだかんだ理由を付けつつ最後が大部分を占めているとしか思えない。明日のトレーニングメニューは倍確定だ。
　そんなわけで茨は塩ラーメンを茹でている。こんな夜分に。
　今更だが『初めてラーメンを食べる』というのはそれはそれで一生に一度の撮れ高になったのではなかろうか。一度食べたら未知の状態には戻れないわけだし。まあ、幼子のように目を煌めかせてそわそわと大人しく待っている姿を前に「やっぱり未知のままで撮影に挑みましょう」と言えるほど鬼でもなかった。甘いって？　それこそ今更だ。
「閣下～。じきにできますので器の準備をしていただけますか？」
「うん」
　世界の乱凪砂にラーメンの器を並べさせている。冷静になると愉快な絵面だった。愉悦感とでも言うのだろうか。非の打ちどころのない美術品に爪を立てたときのような。いや、立てたことはないけれど。
　凪砂が取り出したのは底をえぐるカーブがなだらかな無地の器。ESのスポンサーを考えれば決して安物というわけではないのだろうが、所詮は量産品。それが脂っこい香りを纏ってもなお格別に麗しい男がひとたび手にすれば、かつて王侯貴族が使用した伝統ある陶芸品の如き価値を錯覚させるものだから困る。この場合の『困る』は持て余しているわけでも対処しあぐねているわけでもなく、豊作の余裕に近い。存外気分は悪くないのかもしれない。茨は自分の機嫌を他人事のように分析した。
　そんなこんなで食卓は整い、我らが最終兵器は塩分過多な湯気を介してさえも美しい。
　いただきます、と律儀に手を合わせた指先の爪にすこし泥が挟まっていることに気付いて顔を顰める。昨日の遺跡調査とやらは随分とお楽しみだったようで。
　ケアを今晩中に行うか明朝に回すか、でも朝から打ち合わせがあったはずだからばたつかせるのもなぁとスケジュールパターンをテトリスのように組みながら、目の前で耳からこぼれた一房を人差し指ですくってやる。凪砂は礼でも述べようとしたのか顔を上げかけるが、麺を咥えていたので空気だけを揺らした。ああ、美術品に爪を立てたこと、あったな。なぁんて。
「どうですか？　初インスタント麺は」
「茨が普段人類の敵のような表現をして私から遠ざけるから、どんな味がするのかと思っていたけど……美味しいね。勿論君が作ってくれる料理も美味しいけど、それとはまた少し違って猥雑な味がする」
「ええ、塩分量は人類の敵ですからね」
「暴力的ですらあるね」
「スープは絶対に飲み干しませんよう」
「茨は食べたことあったの？」
「まぁ、仕事が立て込んでいるときなんかは」
「ずるいな。今度は私も呼んでね」
「自分が食べるのは閣下がお休みになっている時間がほとんどですので。けどまぁ……こうやって夜中に催促されるよりは日中に食べたほうがまだマシです。食べたいときには予めお知らせください」
「……あ、でも、こういうのは夜中に衝動的に食べるから美味しいものだってジュンが」
「ジュ～ン～」　
「ねえ茨」
　はい、と慣れきってしまった角度で顔を上げる。
「……なんだか、悪いことをした気分」
　風光絶美が服を着て歩いてるような色香を纏いながら、そんなふうにあどけない表情を浮かべるのも、慣れっこなのだ。そうとでも言い聞かせなければ。何度食らったか分からないのに、油断するとこめかみを殴られるような感覚を覚えて身体の重心を意識する。凄艶な美はもはや暴力に等しい。
「日和くんにも教えてあげたいな。もうジュンと食べたかな」
「あ～目に浮かぶようですな。せがまれて作ったものの『地獄のようなしょっぱさだね！　人間が一日で摂取して良い塩分の量じゃないよね！』とか言われて途方に暮れるジュンの姿が」
　じゃぶじゃぶと豪勢に水を出しながら器にスポンジをすべらせる。何もしなくていいと告げたのに隣で所在なさげにしている凪砂に、つい油を落としたばかりの食器を渡した。いそいそと布巾で水気を拭き取る姿を横目に、ああ、爪を立てているなぁということをつらつらと考えた。
　そのうちラーメンビュッフェでも開催して企画にしてしまおうか。先日のラジオでは、『Adam』がご当地ラーメンを食べたエピソードが意外な庶民性ということで好評だったようだし。
「ねえ茨」
「はいはい、今度はなんですか。もう洗い物は終わったので今度は歯を磨いて寝る時間——」
「楽しいね」
　どうせやるなら効率的に、というのが茨の持論だった。このひとの好奇心を満たすことと、未来の成果に繋がる布石を打つこと。それだけで充分生産性は上がる。今、それ以上の何かを得るとしたら、それは期間限定のボーナスポイントとか、二枚買ったら十パーセントオフとか、その程度の価値で良い。
　時間が時間なのでコーヒーはカップの半分までにした。凪砂はいつもと違う水位で起こるさざ波としばし戯れているようだった。腹と好奇心を満たして満足したのか、僅かに高揚をはらんだ吐息が深夜の三角コーナーに落ちる。流してしまうのがもったいないような気がして、コーヒーのペーパーフィルムの端を少し折った。流れ出してしまった時も、飲み下してしまったカロリーも、口にしてしまった言葉も、繋がれてしまった縁も、もう止めることはできない。だからせめて、悪あがきのように予定調和の段取りを狂わせてやりたいとも思うのだった。こんな夜更けに飲むコーヒーのように。
「もし、今ここに隕石が落ちて地球が滅びることがあったら、私たちはラーメンの化石と一緒に発見されるのかもしれないね」
「恰好つかないので御免被りたいですね。どうせなら先週のウィークリーランキング一位となった『Eden』のアルバムと一緒に発見されて博物館の一等地に飾られるなどして後世まで語り継いで欲しいところですが」
「……その頃にCD媒体を再生する環境ってあるのかな？」
「じゃあ石にでも掘りますか、我々の歌を。我々の終末の音楽を人類の歴史のいちぶとして刻みましょうや！」
「……茨、だんだん面倒くさくなってない？」
「滅相もない。貴方に纏わることに徒労など」
　それは半分本音で半分嘘。実際のところ徒労ばかりだ。けれどその徒労はいずれ得る対価を引き寄せる。だから徒労は苦労であっても憂慮ではない。憂慮であるならば、憂慮であるならば、こんなにも、損なわれることに興奮を覚えることが、あるはずがない。
「発掘は好きだけど、される側になるのは考えたことがなかったな」
「あなたが発掘されるときには絢爛豪華な棺の中ですよ。煌びやかな装飾をまとってね」
「ふふ、死の直前までそんなアイドルで在れたら、とても嬉しいけれど。自分が未来で価値あるものになり得るかどうかを見届けられないのは、少し残念」
　潰えることなどありませんよ。
　そう喉元まで出かかった言葉を飲み下したのは、はるか数百年数千年先の未来を見ることが叶わない、途方もない悲しみが祈りのようで。ひとの寿命に対する無念さを嘆くその純粋な心に、誠実でありたいと感じたからかもしれない。
「発掘されるのって、どんな気持ちなんでしょうね」
　呟いてから、そういえばこの人は芸術品の山から発掘されたのだったと顔を見る。凪砂はこちらを向こうとしたが、外で物音がしたので窓に顔を向けた。そろそろ寝ますよ、と、視線の帰宅を待たずに立ち上がる。
　一度ラーメンを食べたら知らない頃の状態には戻れないし、一度掘り当てた遺跡を埋め立てて素知らぬ顔で掘り返したとして、同じ感動は得られない。一度飲んだコーヒーの粉だって、もう使うことはできない。美人を三日で飽きることはないにしても、既に知っているものに対しての感嘆は、なかなかどうして、慣れと本心の狭間から立ち退いてはくれない。
「私を真の意味で発掘してくれたのは、君だけどね」
　そうですよね。あんたはそういう人だった。

　特番は好評で、すぐに次の出演が決まった。
　次は味噌ラーメンが食べてみたいな。衣装を脱ぎながら、あの日初めてラーメンを食べたときのような明るみを瞳の中に抱えこみながらそう言ったひとの、首筋に流れる汗のなまめかしさを、生の結晶を、誰か留めてくれていたらいいのに、と思った。

導かれるように損なう