　雨の日は決まって金縛りに遭う。
　意識だけが冴えている雨音の下、いつもベッドの横に腰かけて煙草をふかしている男の幻覚を見る。夢のようではあるけれど、自由が効かないのは体だけで、見ようと思えば目蓋を持ち上げ声を発することもできる、現実のこと。それをしないのは、襲い来る危害に対する自衛心ゆえというよりかは、この男は一切防御ができない俎上の鯉同然の自分に一体何をしてくれるのだろうかという空想にふける時間を楽しんでいるからかもしれない。されてたまるか、という感情と、どうこうしてみせろ、という感情は常に競合している。それはひとつの虚勢でもあるし、自信の裏打ちとも言えるし、未知への憧憬でもある。失敗によって見られる景色と言うものは、当たり前だが失敗しなければ見ることはかなわない。敢えて狙ったことはないが、思い通りに事が進まないことのほうが多い現状、その光景は飽きるほど目の当たりにしてきたものだった。
　浴びるほどの醜態をさらし続けても、戦地紛いな地で培った野性の勘がはたらくのか、石橋を執念深く叩き、時には他人に叩かせて渡った経験値が物を言うのか、死ぬほどの大失態には至っていない。死んだことはない、と言うと気違いじみているがしかし、体験したことのない未知はつまり、対応しようがないので。だから、もし煙草の男に殺されるようなことがあったなら、煙草の男が自分に灼然たる殺意を向けるような素振りを見せたなら、その瞬間に対処療法を閃くのかもしれないと、そんな好奇心が、そんな飽くなき欲求が、金縛りとの懇ろを渇欲している。
　雨の日は決まって金縛りに遭う。意識だけが冴えている雨音の下、いつもベッドの横に腰かけて煙草をふかしている男の幻覚を見る。ふう、と煙を吐き出すのは最初の一度だけ。煙は仰向けに晒された無防備な顔の上、無謀にも十センチ上空をすれすれに飛行し、小夜をめいっぱい張った、ひえた空気の湯殿にとける。閉じた目蓋の裏でいつも見る光景だった。
　その日は人生の分岐とも呼べる日で、唾を飛ばしながら怒号を轟かせていた憎たらしい上官が仰々しく腰を折り、最早底辺の人間なぞ視界にすら入っていなかったであろう小太りのお偉方はゼロの数に瞳が釘付けなのは明らかで。ごまをするさまが可視化できたなら、それはそれはいやらしいカーブをえがいて、泥ひとつないドレスの裾を描画し、戦地において無用の長物に他ならないそれを色鮮やかに飾り立てただろう。なにひとつ響かない言葉はしかし、なにひとつ持たず、がらんどうで響くばかりだった空間にたしかな音を残した。空気よりも質量のあるそれを、拒む理由などなかった。以来、金縛りはぱったりと途絶えた。
　雨の日は決まって金縛りに遭っていた。意識だけが冴えている雨音の下、いつかの成れの果てと出会っていた日を、今はたいそう懐かしく思う。――男は自分だったのだ。過去を捨てきれずに焼き尽くすこともできずに不完全燃焼の煙をゆらして、生ぬるい夜を漂流しては白けた朝を迎える。隙を生むまいとする我が身の揚げ足を取るように、穴だらけの人生の隙間に煙をくゆらせ、余地を埋めては優位性を得て安堵する、どこか空ろで、投げ遣りですらあった過去の自分。枷はほどけた。もう死の予行演習は要らない。だのに雨の日は決まって首の後ろが突っ張るようにひりつき、あの日の知的好奇心が蛇のように這い出てくる錯覚を覚える。眠っている間に外を闊歩されてはたまったものではないから、そのたびにぐいと押し込み、それが喉から棘のように飛び出さぬよう、言葉を絡めて網を張るのだ。盤石の砦を築きつつ、朝になって滑りのよい喉元に気付かないふりをしながら、昨晩も、今晩も、明晩も。
　誰かが言った、”雨の日は決まって金縛りに遭う”。
　嗚呼、俺は今も、かつての枕元で煙草をふかしているのだろうか。

在りし日に残した空ろな夢の話〈七種茨〉