　棒針を左手に持つ。一つ目の糸に、棒を手前から向こうへと差し込む。そこに毛糸をかけて棒を下に引き、糸をくぐらせたら左の棒の向こう側へと糸を流す。
　これで漸く一目。
　果てしない道のりが満ち潮のように広がっていくのを感じながら、ジュンは肩の力を抜いた。糸が針から外れぬよう、いつもよりも慎重に。　
　編み物の記憶は古い。母の手元が記録された映像はことのほか明瞭で、海馬の鮮度には感心する。薄青い色が幾重にも重なったまあるいかたまり。それが魔法のように形を変えていくのが不思議でしょうがなくて、幼い頃はよく、母の隣でじっと見守っていた。針が糸の波を編んでゆくのが好きだった。針は泳ぐのが上手だね、と言うと母は二度まばたきをして、穏やかな波のように手が翻ったかと思えば、やさしく頭に伸ばされる。手のひらの温度はひょこひょことはねている髪の毛を撫でつけて、やがて記憶は閉じられる。
　母が作っていたのは何だったろう。マフラー、コースター、ポットカバー……。
　作る過程ばかりが鮮明だ。だから、その記憶をなぞるには些か解像度が足らない。水泳選手の動きをよく覚えていても、自分がうまく泳げるとは限らないのだ。いや、水泳はそれなりにできるほうだとは思うけれど、それは水の中に限った話で。毛糸の海を上手に泳ぐ方法を、残念ながらスイミングスクールでは教えてくれない。

　斯くして、ジュンはかれこれ一時間ほど教本片手に棒針と格闘している。
　一時間で一段しか仕上がっていない理由は塵も積もればという感じである。息抜きをしよう、と席を外してシナモンでお茶を入れてもらって、空中庭園でひと息ついてさあやるぞと再び手に取ったら、あれ？　まずは右だっけ左だっけ？　首を傾げているうちに針は蛇行運転を繰り返し、せっかく数人集まった縫い目はあっけなく解散。方向性の違いで解散するバンドだってもう少し爪痕を残すだろうに。
　気を取り直して一から始めてみるも、行程を行った来たしているうちに糸の束はぼやぼやと柔らかくなってしまうばかり。今度こそジュンは棒針を手放して寝転がった。ふかふかと耳をくすぐるカーペットの編み目の美しいこと！
　来週までには仕上げるつもりだったが間に合うのだろうか。形になるかすら怪しい。最終日になんとかやっつけていた夏休みの課題とはわけが違う。考え事をしているうちに手順はどんどん頭から抜け落ち、毛糸と共に集中力がばらばらとほどけていくのを感じた。
「わお、魅力的なマフラーだね」
「セーターですぅ～……」
　光を透かす萌黄色は憎らしいほどに鮮やかで。
　普段は春嵐のような騒々しさで空気を震わせているというのに、こうして時折音もなく涼やかな風を運んでくる。反射的に返した言葉はもはや脳を介すことなく口をついた。恨めしさをにじませた声色を気に留めることもなく、背後から伸びた手はジュンの上を通過し、糸の先をちょんとつついてみせた。
「初心者のくせになんで難しい形にするかね？　ジュンくんってばそんなにチャレンジャー精神に満ちあふれてたひとだっけ？」
「オレだってやりたくてやってるわけじゃないですし……。企画でセーターを作るって決まっちまってるんですから」
「ふうん。難儀だね」
「他人事だと思って……」
　あとチャレンジャー精神は常にありますし、と続けた言葉はいやに子供っぽい響きを帯び、少し失敗した。案の定、日和は愉快そうな顔つきで頬杖を付いている。「知ってるね」と、シンプルな肯定はかえってこそばゆい。駄目になって焦るほど完成している部分があるわけでもないが、それでも小学生みたいな好奇心が無尽蔵なこの人に、微々たる成果をおじゃんにされてはたまらないと腹筋に力を入れて起き上がる。
　のろのろと波のかたまりに手を伸ばしたジュンに「手先を鍛えたらいいね、お花とかやってみない？」と意外と真っ当なアドバイスが告げられたが、今欲しいのは長期的な計画ではなく即物的な成果だ。検討しまぁすと返し、再び毛糸と向き合う。
「うまくなるのが良いに越したことはないけど、企画的にはいかにも苦手そうな子が作るってのが良いんだろうね」
「え、じゃあむしろへたくそなほうが撮れ高があるってことです？」
「結果的にそういうこともあるだろうけど、それを狙ってやるような番組はどうかと思うね。単純に『アイドルが作った』という点だけに価値を見出してるって可能性も否めないけど」
「あー、でも小学生の自由研究ってどう見ても親が作りましたーみたいなのも多かったすねぇ」
「自由研究ってなぁに？」
「あー、自由な研究です」
　そんな風にだらだらと会話を重ねていても、編み目は重ならない。それどころか新たに不自然な結びが生まれている。オレ、そんなに子だくさんの願望ないですよぉ。いっそこの未完の状態で思い切って持ち込むというのも手だろうか。それこそネタにはなるかもしれない。などと虚無感に襲われているジュンの肩に日和の手が触れる。
「ぼくが教わったのはフランス式だったね」
　そう言うが早いか。ひょいと攫われる編棒。そうしていとも簡単に主導権を移した毛糸の束は、みるみるうちに編み目を増やしてゆく。ジュンとて、何度も繰り返した手順だ。それが動画のように再生されている。それも淀みなく。
　同じようでいて異なる裏技のようなものが存在するのだろうか。こう、指の位置とか、糸のくぐらせ方とか。あまりにも手際が良くて、スローモーションのような自分の所作と比べようにも速度が違いすぎる。すいすいと両手を動かす日和の手元をまじまじと見つめていると、「もっと効率的な方法があるってこと」と心を読んだようなタイミングで日和が言った。
「たとえば？」
「完成品を買うのがいいね」
「…………」
「冗談だね！　あ、いや。冗談というわけでもないね。適材適所というか、できない人も等しく得られるために完成品が売られているわけだから」
　みんながみんなできてしまったら、売り場に並べたって仕方のないことだし。
　それは当たり前のことなのだが、そんなこと言ってしまったら企画は何も成り立たない。
「フランス式、って言ってましたけど」
「うん。端的に言えばアメリカ式は糸をかけながら進めるけど、フランス式は糸を拾いながら編むイメージだね。目が揃いやすいのは前者だけど、後者のほうがふっくらとした出来になる感じかね」
「へえ……」
　よく分かってないジュンの気の抜けた相槌は、ふかふかのセーターに編み込まれてゆく。
　たしかにこの人は、誰かが取りこぼしたものを拾うのがうまいよな、なんて心地よい波間で思ってみたり。器用に糸をすくうように、みなぞこに沈んでしまった原石を的確に拾いあげる能力に長けているのは、育まれたものなのか、生来のものなのか、せっせと動かされる指先から読み取ることは叶わなかったけれど。
「おばあさまが好きでね。ぼくもよくブラウスの襟やケープを編んでいただいていたね」
「オレには縁がなさそうな代物っすねぇ～」
「……っぶ、ジュンくんがふわふわのレースを付けてるの、面白すぎるね！　でもそういうコンセプトが今後『Eden』に来ないとも限らないからやっぱり筋トレはほどほどにしておくといいね！」
「それこそ適材適所でしょうよ……」
「そんなことないね。アイドルは何にだって成る生き物だから」
　この毛糸みたいにね。
　そうして会話が途切れても、編み目は途切れない。思えばこれまでもそうだった。どんなに不器用で不揃いでも、何も途切れることなんてなかった。途切れさすまいと、紡いできた。それが此処に繋がっていたのかもしれないなぁと、せめて紡げない糸の代わりに日和の機嫌を繋ぐことにした。お湯が沸く頃には、毛糸は劇的に姿を変えているだろうか。途中で中断したとして、あのひとはきっと編み目を見失うことはないのだろう。
　薄水色のセーターは、途中から別の人間の手が加えられたことは傍から見れば一目瞭然だ。けれど途切れなかった意図を紡いで完成したセーターは、母のようには作れなかったけれど、母には作れなかったセーターだ。企画の主旨は知らないが、一人で完遂すること以上に価値があるように思えた。
　これ完成させちゃっていいの？　最初の二段だけ追いはぎにあったみたいなほつれ具合だけど、という日和のウィットに富んだ指摘は番組当日の台本に使えないだろうか。ジュンは途中から突如きれいな編み目となった小さな海に、無性に親近感を覚えた。
　やがてカップに注がれた紅茶は波一つ立てずにゴールデンリングを生んだ。アールグレイの香りが、二人の編み手の境目をゆるやかに均してくれることを願っている。

海を結う