　時折、植物になる夢を見る。
　——俺たちは、実体があるのかも分からない姿で向かい合っている
　——幽霊かな
　——んにゃ、水さ
　——ならば実体はあるだろう
　——ならば訂正しよう、実体はあるが実態はない
　——それは今このときのぼくらだって同じだ
　——実体はあるが実態はないと
　——実体があるのかすら怪しい
　じゃあ俺が話してるお前は誰なんだ？　と笑う斑髪の少年も、そういう哲学は流行らないよと素気無い返事をする少年も、こんなやりとりは迂遠の空談だということは知っていた。
　——誰かが認識していれば、それは存在を得るだろう
　時折、植物になる夢を見る。
　干渉と傍観の狭間で、きっかけを待つ夢を。

　　　＋＋＋

　そこは何の変哲もない公園だった。
　そもそも公園の定義が遊具の有無なのか、土が敷かれ囲われた敷地であることなのか、明確な答えは少年の知るところではなかったが、一先ずフェンスと植木で囲まれ、滑り台・鉄棒・ジャングルジム（回るタイプのものである）が設置されていたので、公園、と呼んで差しさわりはないだろう。その普通の公園の入り口で、黒髪の少年が膝を突いていた。正確には、突かされていた。
　あのさあ。人識の声には苦渋の色が滲んでいる。
「毎ッ度毎ッ度よぉ、お前、人の不意を衝かなきゃ死ぬ病気にでも罹ってんのか？」
「んー、『敵の不意を衝く』って、美学に反するって怒りを買うこともあるから言わないほうが無難だぜ。お前の不意を衝くのは僕の趣味だけど」
「ためにならねえ趣味は今すぐやめろ！」
　何が悲しくてこの年になって膝かっくんで学生服を汚さねばならないのか。先日やりあった際に泥まみれにして、クリーニングに出したばかりだというのに。大将になんて言い訳しよう。
「で？　僕の気配にも気付かないくらい何にご執心だったワケ？」
　意識的に気配を消していたくせによくもまあ、と思ったが、消していなかったとして、出夢が何か仕掛けようとした時点で完全回避できる確率はまだ低いのだ。揶揄する声音には暖簾に腕押し。膝に付着した乾いた土を払いながら、数分前までの視線の先へと目を向ける。
「……あれを見てたんだよ」
「？　滑り台？」
　の、下、と追い払うような仕草で示した指先を、出夢の視線が追いかける。青錆色の階段となだらかな銀盤が交差する鉄筋の一角に、それは宙吊りになっていた。
「傘ぁ？」
　持ち手が随分と太い気がするから子供用だろう。ランドセルを背負った子が数人通りかかったので、通学路なのかもしれない。人識も遠目に見ただけなので、ああ、傘があるなぁくらいの視覚情報しかない。
　ただ、その色彩が。
（どうにもいけねえ……）
　鮮烈な黄色が、夏空の青の中に佇んでいる。
　記憶に深く、刻まれてしまう。
　人識は、特定の思い出を持つことがどうにも好きではなかった。良い思い出を得ることはいい。誰だって振り返ったときに退屈な人生よりは満ち足りた人生のほうがいいだろう。だが一定のラインを超えてしまった記憶は、新たな基準となる。それ以上や以下と比べてしまう。それはとても厄介なことだった。
　だから青に対峙する黄色を見つけたとき「まずい」と思った。すぐに目を反らしたけれど、それは目蓋の裏側にしっかりと焼き付いてしまっていて、さてこの少しばかり深い記憶をどう処理しようか、と思案していたところでの膝かっくんだった。不甲斐ないにも程がある。
「誰の傘なんだろうな、と思っただけだよ」
　ぽつりとこぼれた呟きに、出夢が不思議そうな顔をした。
「持ち主探してどうすんだよ。良い人か」
「どうってこともねえよ。ただ、何かがどうにかなりそうな気がしなくもないってだけだ」
　ふうん？　と暫し訪れる静寂。
　持ち主を見つけて、傘の存在を「普遍的なもの」にしたかった。
　特記事項など存在しない、あくまで中学生活におけるひとつの整った記憶として、完結させておきたかった。
　……と、いう理由を伝えるつもりはないけれど。
「よく分かんねーけど、やりあうのは屋内だろうが公園だろうが変わらないし、そのついでに付き合ってやってもいいぜ。持ち主探し」
「どういう風の吹き回しだよ」
　何を企んでいるのかと見やるが、出夢はそれを笑って否定する。
「……ま、お前の何をアテにすんだっつう感じだしなぁ、むしろ何もしないでくれるのが良い。それが良い」
「じゃ、襲っていい？」
「とんでもない提案を正面からするな」
　ひとり頷く人識を残し、出夢の意識はもう傘の外側へ在るようだった。
「ちげーよ何期待してんだよ、スケベだな。『遊び』に決まってんだろ」
「あ、あー。今日は無理」
「なぁんで」
「キレんなよ。課題が出たから帰って片付けなきゃなんねえんだよ」
「学生かよ」
「学生だよ」
「ぼーっと突っ立ってたくせに」
「あれは俺の心の情緒をふくよかにさせる行為だから必要なんだよ」
「僕とやるのもお前の人生をふくよかにさせる行為だからいいだろ」
「適当言うな、お前とのそれは俺の人生の短縮番号だ」
　適当なことなんてないんだけどなぁ、と出夢は笑い、「……それから、期待なんざしてねえ」と眉を顰める人識を見る目が一瞬まあるくなって、八重歯を囲う薄紅色が「チューガクセー男子」と弧を描いた。

　　　＋＋＋

　そんな公園の入り口でのやりとり（実は敷地内には足を踏み入れていなかった）から二日。特に約束していたわけではなかったが、二人は同じ場所で顔を合わせた。今度は正面から。
　滑り台に引っかかっていた傘は、地面へと横たわっていた。
　手に取ってみると思ったよりも使い込んである。剥がれた錆が、鉱山の発掘場のように人識の足元に色を落とした。
　傘開くのって、僕、初めて、と出夢が傘を攫う。
「似合う？」
「似合わねえ」
　到底小学生には見えない立ち姿に、黄色い傘は案の定似合わなかった。
　お世辞の一つも言えないんじゃモテないぜと茶化した声に合わせて、傘がくるくると回る。真っ黒な出で立ちに、黄色い傘。何となく既視感を覚えたが、ピンとは来ない。
「しっかしこれ、雨のたびに持ち歩くのか？　邪魔だな」
「まあ折りたたみとかもあるし……。濡れるよかマシだろ」
「雨程度で？　雨雲の先まで走っちまえばいいだろ」
「お前のものさしで生活用具の要不要を語るな」
「けどこいつぁ持ち主がいなきゃ無価値だ」
　くるくる。傘はまだ回っている。
「傘としての価値は生きてるだろ」
「いーや、ヒトが持たなきゃ用具としては機能しない」
「極論だな、命令で動く人間も同じってことになるじゃねえか」
「そう」
「そうって……」
「だって現に、僕はただの有機交流体だ」
「……」
「実体はあるが、結局のところ現象でしかない、この傘と同じだ。僕を使うやつがいなきゃ僕は機能しない。僕の身体は意思を流されて初めて動く。ま、全部ブチ壊してもいいんだけど、制限があるし、人質もいるし、僕一人なら路頭に迷ったっていいんだがそうもいかねーし」
　出夢はつらつらと述べながらふらふらと傘を片手に闊歩し、足を止めた先で蛇口をひねる。古い水飲み場は長い間使われていなかったのだろう、一拍置いて、勢いよく出た水は傘の内側に小さな溜池を作り始めた。
「苛々するんだよなぁ」
　勢いを増す水流。みし、と細い骨組みが軋む。
「本来の役割を果たせなくても、こうして受け皿にはなる。そこに理由はない。だけど持ち主がいれば別だ。それだけで理由を得る」
　水はついに溢れ、地面の色を変えた。出夢はぱっと手を離す。
「僕が得られない価値を、そんな単純なことで得る」
　お前がその手助けをすることが、どうにも苛々する。
　支えを失くして転がる傘は、受骨が何本か折れているようだった。
　出夢はもう、傘には目もくれない。まっすぐに人識を見ている。
　人識は、特定の思い出を持つことがどうにも好きではなかった。
　何事も、特記事項など存在しない、あくまで中学生活におけるひとつの整った記憶として、完結させておきたかった。
　出夢は、なあ、人識、とリビアングラスの瞳を揺らして、
「僕、お前に綺麗な思い出にされるのは嫌なんだけど」

　　　＋＋＋

　次に公園前で会ったとき、傘はなくなっていた。
　梅雨はとうに明けたというのに、あのときこぼした水がそこらいっぺんに漂っているかのように、夏がむわりとまとわりついた。
　開口一番、いつものように軽口を叩いてまずは殺し合った。当然、出夢の優位で小休止となり、人識はまた学生服を汚した。黄色い傘の話題は出なかった。どうでもいい話とどうでもよくない話をして、本音だか建前だか分からないやりとりをして、もう一度殺し合いをして、次の約束をすることも無く別れた。背を向けた瞬間、人識の頭の中はすっかり提出を忘れていた課題のことでいっぱいだった。だけど彼はプロのプレイヤーだったので、声をかけられるまで、出夢の気配がそこから動かないことにも気付いていた。
「なあ人識」
「なんだよ」
　足を止めて振り返る。予定調和のように。出夢は同じ場所に立っていた。同じ場所で、晴天を背負うように、立っていた。
　ふいに、端麗な黒と、目蓋に焼き付いた黄色が重なる。
（……ああ、そうだ）
　——あれは、危険色だ。
「傘の持ち主、僕が殺したんだ」
　星を差したる夜の影。
　ひとりでは、たったひとりでは理由を持てぬ現象よ。
　掲げた黄色のその下に、晩夏の雨は流れているのだろうか。

黄色い傘の持ち主は