［１　現実はかくありき］

　世界のはじまりは暗闇だったという。
　知恵の実を得た人間は光を手に入れ、朝と夜、二つの時間を手に入れた。明るいのが朝で、暗いのが夜。ごくごく自然に明るいうちが活動時間になっていたのは、人間が夜目の効かない生き物だからだろうか。
　夜の雰囲気は好きだ。冷めきった空気に、生きてる音が息を潜めているネイビー。余計なものを隠し尽くしてくれる黒。
　視覚に制限をかけられている状況というのは不安定な心境であり、無防備な体勢でありながら、誰もが体験した暗さだ。その暗さは、ぼくらが胎児だったことを思い出させる。
　どんな極悪人も聖人も、皆、一度は母親の胎盤を介して世界の空気を感じている。
（一度は、って、おかしな表現だな）
　人は一度きりしか人生を覚えていられないのだから。
　そんな希少な暗闇を抜けてきたのだ。
　だからきっと、人は夜に親近感を抱きやすい。そう思っていた。だからきっと夜が、突きつめたところ、暗闇が嫌いな人間なんていない。そう思っていた。
　いいや光が表立っているから闇があるのだと言うにしても、それこそ比較対象があるから明言できるというものだ。夜の闇がなければ光の価値だって見出せない。ひねくれ論には違いないだろうが、論破出来るならしてもらいたい。
　ただ、確かめたいだけだ。自分が生きている環境に疑問を持ってしまって、でも妥当でないと思ったところでどうしようもない規模で、なんとか自分を納得させるために理由をこじつけるのだ。
　人は生まれたときから、統計上六十一億人分の一の存在だとわかっていても、唯一の存在であれたらと思う。無意識に思っている。人と同じでなければ嫌なのに、人と同等では嫌なのだ。
　酷く面倒な傾向を持っていて、そのとおりに生かされることが気に食わないから、常識に抗いたくなるに違いない。いつの間にかそういう風に作られていた。
　誰ぞの見えざる手が操っているからだ、と理由付けるように。
　土手に沿う柔らかい芝生。そのゆるやかな傾斜に身を委ねている男もそうだ。物事に対するひねくれ具合が純朴過ぎて、まるで純真無垢な少年のように錯覚する。人生を蛇行してしまった男。
　真っ黒なコートに赤い革紐が巻きつくブーツ、同じ色のスカーフ。サングラスの下の表情は窺えないけど、混沌とした瞳が泳いでいるに違いない。
「確かめねえの？」
「何が」
「俺」
　偽物かもしんねえよ、と笑う零崎。ぼくは肩を竦めることで返事をした。
　長い爪がフレームにひっかけられて、いかついサングラスが外された。
　――底なし沼だ。何度も見ているはずなのに、軽く感動すら覚えながらまばたきをした。
　暮れ時の空にうまくはまっていて、朝焼け色が眩しい瞳。あどけなさは抜けていないのに、ひどくくたびれているようにも見えた。
　生まれもった外見は、ステータスであり、アイデンティティだと思っていた。今でも思っている。性格や気遣いひとつで人のあり方は云々なんても言うけれど、なんだかんだ言ったところで見目に左右されるのはもう仕方のないことだ。目の前の少年が良い例だろう。
　この場で唯一の比較対象となりうるぼくが、あまりに淡白なオーラを放っていることも、多少なりとも影響しているのかもしれない。
　だってぼくの服装と言えば糊の取れかかったシャツ（そもそもアイロンなんてものはこの部屋には存在しないので）に、黒を買ったつもりだったんだけど、箱を開けたら紐だけ赤かったスニーカー。紐の先に塗料が塗られているらしい。顔を出した月明かりに照らされてきらめいた。
　名前も思い出せない紫色の小花を踏み分けて、ぼくは零崎の横に腰を下ろした。静かな夜だ。帰宅ラッシュの時間帯だというのに、河べりには人っ気がまるでなかった。
　点滅に切り替わった信号がやけに眩しい。いつの間にか夜二十一時を回ったらしい。数分に一度走り去る車は、もう信号を街灯としか見ていないようだった。
　歩行者、結構いると思うんだけど、と余計な心配をしながら目線を横に向ける。薄暗い視界に、サングラスをかけたままだったことを思い出し、のろのろと外した。頼りない深夜の街灯は土手下までは十分に照らしてはくれないようで、零崎がこちらを向いているのだと状況を把握するまでに一呼吸以上を要した。
　零崎は問いかけの応答を待っているのか、胡坐をかいた足首を両手でつかんで揺れていた。
「君じゃなかったら、なんなのさ」
「幽霊とか」
「オカルトの類は御免だよ」
　苦手なのかと小馬鹿にした声が飛ぶ。非科学的な現象は性に合わないんでねと答えると、ああお前って理屈屋だもんなと失礼な言葉が返ってきた。同意するかのように信号が点滅を続けた。軽口を返してきた割にはだんまりを決め込んでしまい、視界だけが煩かった。
　そのうち、赤い光が零崎の目と重なった。勝手に複雑な気分になって、指先に触れた石を投擲した。石はとん、とん、とん、と水面に足跡を残しながら見えなくなった。横でおお、と感嘆の声があがる。
　何がしたいのかよく分からなくなって、会話の主導権をそっと手放す。零崎が堪えきれず、と言った様子で息を吐きながら笑った。
「なんでえ、随分丸くなったんだな」
「……うるさいよ」
　ばつが悪くなって雑草を引き千切ると、零崎は新品のグラインドのようになめらかなまばたきをして、やっぱ変わんねえわと懐かしむような声音で言った。同じように石を投げ始めた零崎を見ながら、なぜその返しにほっとした自分がいるのか、ぼくには分からなかった。
（変わっていないことが、）
　良かったのか。そう思われたかったのか。
　どうしてこんな状況になっているのか。

　ほんの二日前のことだ。
　学校から帰ったぼくを待っていたのは、地獄のような暑さの四畳半と、文字通り地獄から来た鬼だった。
　勝手知ったる知人の家とばかりに水道水をあおっていた零崎は、待っていましたとぼくが下げていたビニール袋からアイスを抜き取ると、これまでの行路の世知辛さを述べ始めた。お前はどこの悪徳セールスだと文句を言おうとした時、嫌味も揶揄も、一点の曇りもない真っ直ぐな目で、人って不思議だよな、と呟いた。その外見に似つかわしい、大人びた雰囲気の中、目の奥だけが少年のままで、そんな、あまりに突拍子もない言いぐさをするものだから、らしくもなく落ち着かない気分になった。
「あっついなー今何月だと思ってんだよ」
「不法侵入しといて人の住居にケチつけるとは良い度胸だな殺人鬼」
「殺人鬼と書いてニートと読むのを止めろ」
「事実だ。大体文句言うならわざわざ京都にいる必要ないだろ。東北行けよ」
「いやそれがさ、向こうは寒すぎるんだよ。俺今半袖しか持ってねーの」
「別に真冬じゃないんだから死にはしないよ」
「けど一昨日ストーブ付けてたってってラジオで」
「どこで聞いたんだよ……」
「だからラジオで――ってああ、そういう。行きつけの店があってな。ちっと回線借りたのさ」
「ふうん。大陽の申し子と呼ばれた君なら大丈夫だろ」
「今初めて聞いたがな」
「はいこれ上げるから帰って」
「おおーホッカイロなんてお前も気が利くなってオイこれ使用済みオイ」
「うるさいなあ哀川さん呼ぶよ。一瞬で涼しくなるよ」
「あー死んだ俺死んだ」
「だから帰れ」
　文句を垂れる声におざなりに返答をしているうちに日が落ちていて、幾分涼しくなっていた。電気をつけていなかったため、部屋は一瞬で闇に呑まれた。
「電気くらい付けろよ」
「今まで明るかったろうが」
　手さぐりで空を掻いて、スイッチの紐を二度引く。
　室内は再び朝へと戻った。祭事でもやっているのか、窓の外で灯りが散らばっているのに今更気付く。同じく意識を向けた零崎がその様子を想像したのか、満足げな面持ちで振り返った。
　夜は始まったばかりだった。隣の部屋からも、逆隣の部屋からも、電気の灯りが漏れ出した。日常の、小さな連鎖反応だ。どんどん夜になって、そして、どんどん朝に戻る。絵本のページを行った来たしてるようだった。
　ふと、隣でくつりと笑う気配がする。目で促すと、零崎は口元を抑えながらささやくように声を零した。
「幻想的だと思って」
「え？」
「天国に行けそうな気がするぜ」
　零崎が無邪気に声を弾ませた。先程の達観したような彼と同一人物だと判断するには、あまりに子供っぽい仕草だった。仄暗い室内と、そこに飛び込む華やかな灯りのコラボレーションを指して言ったのだろう。
零崎はいつもそうだった。人間くさい話をしたかと思えば、現実離れした空想的な発言をしたりする。
　かと思えば先程のように、全てを見透かしたような、上から見下ろしているような、そんな冷静さを見せる。物騒な世界に生きているわけだから、人と違う感受性が身についていたっておかしくはない。どの零崎人識も本物で、どれが彼の本性かを勘ぐるのはお門違いってものなんだろう、と、ぼくは考えるようになった。そう理解したわけではないが、そう納得した。
　きっと、どれかが欠けてしまっては今の零崎ではなくなってしまう。パズルのピースのように、うまく当てはまって今の彼がいるのだと。納得することにした。
　納得するに至らない輩が、彼の、ひいては零崎一賊の本性を暴きたがり、おかげで少年は実体の明らかでない『異端児』として遇されることとなる。
（不思議だな……）
　言ってしまえば、零崎も、哀川さんも、玖渚も、ぼくからしてみれば同じくくりの人間だ。いくつもの面を持っていて、そのいくつもの面が必要不可欠。不思議だ。人って不思議だ。零崎の言葉を反芻して、ひどくしっくりきた。
　ただ誰に共通しても言えるのは、深い深い瞳は所詮ガラス球で、そのとおりを映しているのだということだ。友人の前、家族の前、嫌いな奴の前、臨機応変に、というほどでもない。意識するまでもなく、装うまでもなく、自然にその状況に相応しい『顔』になる。根っこの本性に、レイヤーを上積みしていっている。
　だから嘘ではない。
　感情が肥大化しても、嘘にはならない。
　本質はそのままだから。
「いつ、行くんだよ」
「は？」
「お前話聞いてねえの」
　深みに嵌っている間の会話が綺麗に抜け落ちている。
　ごめんとマニュアルのような謝罪の言葉を吐き再度催促すると、大仰な溜息とともに眉が顰められた。これは多分、さっきの彼と同じ顔。
「事の顛末教えろってハナシ」
「ああ、良いけど……ここじゃあちょっと」
「出るか？」
「外、今お祭り中だからあまり出る気にはならないな」
　そういうと零崎がぱちぱちとまばたきをした。殺人鬼なのに人混みを厭わないのは、人々が揶揄した如く、彼が本当に『異端児』になってしまったからか、などと思考を巡らせる。実際、彼らが殺人を犯す理由が『他人を厭う』ではない以上、意味のない想定に違いない。
　顎に手を添え少し考える素振りを見せた零崎は、細い指を天井に向け、「じゃあ、祭りの後に」と提案してみせた。
　いつ、という質問は、窓の外へ向けられた親指が答えだった。のぼり旗に書かれた日時は今日と明日。
　戻した視界の先で笑っている零崎が玄関をくぐる頃には、二日後の約束が取り決められた。

　どうしてこんな状況になっているのか。
　それはかくいう経緯があったからに他ならないが、なぜそうすると決めたかは、ぼく自身分からないままだった。
　掻い摘んだ内容を告げると、零崎は意外そうな顔をして、なるほどなあと草笛を鳴らした。そういう庶民的な遊びも出来るんだ、と場違いに感心した。
　また微妙な沈黙が続くのも面倒だと思い、夜にそんなことしてると泥棒が来るよと言ってみたが、なんだそりゃと一蹴されてしまった。民俗の隔たりは身近なところにあるらしい。
　最初と同じように、二人とも向こう岸に身体を向けた形で会話を再開した。何にそんなに驚いたのかを問うてみると、零崎は草を吹き飛ばし、まるで合図のように口笛を一音鳴らしてから切り出した。
「驚いたっていうか、俺的には、お前が素直に話してくれたことのほうが意外」
「……正直、ぼくも何で話したのかよくわからないんだ」
「日付伸ばしといて話さなかったら解してたけどな」
「命はもっと丁重に扱ったほうがいいよ」
　お前が言うなという返答に、それこそお前が言うなよ殺人鬼と反論しかけたが、暖簾に腕押しだと判断して口には出さなかった。
　当てつけのつもりで「君はそろそろ殺された人に刺されそうだよね」と言ったつもりが、零崎は「何言ってんだ、死んだ奴に俺は刺せねーだろ」と怪訝そうな顔をした。あまりにも正論過ぎる常識を返されてしまったので、運悪く通り魔に殺される人間のやるせなさを他人事ながら憂慮した。
　深夜帯に入った道路はさらに空いていた。夜行性の女子学生が小腹を空かせたのか、ビニール袋片手に数人で連れ立って歩いているのが見えた。通り魔がいるんだから外出は控えたほうがいいよ、と心の中で助言をする。横の通り魔がいつ気まぐれに「あの子らちょっと殺してくる」と身を躍らせるかは分からないので、あの女子大生たちの命運はぼくが握っていると言っても過言ではない、と妙な使命感が沸き起こった。
　とんだ英雄気取りだ。けどそんなことを考えでもしないと、またあの赤い光に呑まれそうだったので。
　眠くなってきたのか、時折肩をぶつけてくる零崎をその反動で押し返していたが、ぶつかった回数が十回を超えた時点で数えるのを止めた。意識なんてしてないかと思ったのに、こちらが受け身の体勢になった途端、くぐもった笑い声が聞こえてきた。まあいいかと受け入れてしまった自分を揶揄されているような気がして、気まずい気持ちで下を向いた。
「なんで、ぼくと君なんだろうな」
　今の今まで、そうだと直感したあの日から、疑問さえ持たずに通り過ぎてきた問いが、ぼくの許可なく飛び出した。零崎は振り子のように揺らしていた身体をぴたりと止め、ぼくの呟きを咀嚼するかのように沈黙を守った。
「例えば、互いでなくてもよかった可能性は十分にあり得るだろう。ただ、タイミングの問題だった」
　同じ時代に、同じ場所で出くわしただけ。その機が全てを左右した。実はそうだと言われても頷いてしまうほどに単純で、納得のいく理由。
　……いや、違う。『なんでぼくと君が鏡として選ばれたんだろう』ではない。ぼくたちが疑問視しなければならない問題とは、そんな何分の何の運命の根拠を問うような、そんな、生ぬるいものでは、ない。

「――なんで、ぼくらは対称的な存在を必要としなければならなかったんだ？」

　車は完全に途絶えた。息をすることさえ憚られる無音が痛い。落ちていたはずの二人分の視線は磁石で引き寄せられるかのようにかちあい、呼吸を思い出させた。逸る心音の中、先に口を開いたのは零崎だった。
「人間っちゃあ対立概念を設定せずには生きられねーんだよ」
「そんなことしたって、疲れるだけじゃないか」
「だってそういうふうに作られてんだ。仕方ない」
「宇宙を創った誰かが、太陽を創り朝を創らずにはいられなかったように？」
「そ」
「まるで作った人と友達みたいな口ぶりだな」
「友達さ。親子だったかもしれない。同じ細胞で作られて、組み替えられて、転生を続けているだけの世の中だ。他人のほうが珍しい」
「面白い絵空事だ」
「傑作と言ってくれよ。その大陽が生み出す光と影ってのだって、言い換えればネガポジみてーなもんだ」
「幸福か不幸かみたいな」
「そう、対だ」
　積み木のように嵌めては落としを繰り返す会話はもう手癖のようなもので、対という単語が出てきて漸くブレーキがかかった。それは向こうも同じだったのか、唇の端を少し持ち上げた、仕方ないと言った口調に相応しい表情で慎重に言葉を発した。
　現実問題、と零崎は遠くを見るように目を細める。
「成るべくして成ったって、考えるしかねえだろ」
「……」
「そうじゃなきゃ、あの直感は何だったんだ？」
　光と影は対である、つまり、もはや実体が特定できない大きな事象でさえ、対称となる片割れがなければ存在できない。だからぼくらが互いの存在を認知することは必然だった。零崎はそう伝えたかったのだろう。
　けれどぼくはそれだけだとは思えなかった。例えそれが零崎の恐れている『己の感覚の否定』だったとしても。
　忘れちゃいけない。大概のことには『例外』が付いて回るってこと。
「君の言い分だと、光と影は生と死のように対極だと」
「それが心理だ。そして対だから互いを共有できる」
「そうかな。埋めることや、棺桶に蓋をすることが風習付いてるように、人間は死を閉じ込めるだろ？死ぬってさ、暗闇なんだよ。そこに逝きつくしかない」
「……光の下だって、死は訪れるし維持できるさ」
「それだって、そのまま放置しておく人はいないだろ」
　人間だけじゃない、とも付け足した。
　ああ、車に撥ねられたのね。かわいそう。埋めてあげましょう。亡くなった命は、還してあげないとね。
「還すってことはさ、元に戻るってことだ」
「……毎度思うんだけどよ、お前の言うことって、あまりに常識で、あまりに嫌味だ」
　苦虫を噛み潰したような顏で、零崎が唸った。
　疑問の真相には至れていない。けれど関心の重点は移動していて、それどころではなかった。
　ぼくは続ける。
「ねえ零崎、分かるかい？　命はさあ、真っ暗なところで生まれたんだ」
　細胞が敷き詰められた胎内で。
　水と葉土がひしめきあう地中で。
　硬い盾に覆われた殻の中で。
　音すら聞こえない深海で。
　母なる海と大地に育まれたと信じて疑わなかった。
　その生命は。
「日の下で生まれたものではなかったんだよ」
　笑える話だ。
　輝かしい命の誕生だなんて言うわりには、命の輝かしさとは程遠い薄暗く人知れない場所で、ひそやかにこまやかに、命は前兆を見せ生まれるのだ。

　電気をつけて漸く朝に切り替わったあの夜とは違い、空が自然の摂理に従った変化を見せ始めた。
　息巻いているうちに眠気はどこかへ行ってしまったのか、零崎のぱしりと開かれた瞼が睫毛を押し上げていた。自販機で買ったばかりの二本の缶コーヒーはお世辞にも温かいとは言えず、中途半端なぬるさのそれは、開けただけで手をつけられることはなかった。
「君はさっきぼくを変わらないと言ったけど」
「おう」
「ぼくからしてみれば、君は変わった」
　そう告げて、数分前の記憶を呼び起こす。
鷹揚とした常とは異なり、瞳の色のように感情を昂ぶらせていた彼は別人のように映った。まかり間違えば殺されていたのかと考えるとひやりとした。
　自分が推測した彼の性質で言うのなら、他人の前だった姿が、知人の前の姿に変化したとでも言うのだろうか。話さなくてもいい話をするようになったし、なくてもいい無音を共有するようになった。
　そこまで考えて思い至る。別人になったのではなく、別の面を知ったのだ、と。そう分かるとなんだか妙におかしくて、大声で笑い転がりたい衝動に駆られた。
　だっておかしいだろう。だってこれでは。
「欠陥？」
　これでは、友達みたいだ！
　だが数秒も経たずして、それも杞憂で終わると知る。
「何だよ気持ち悪ィ」
「いや、ちょっとろくでもない想像をした」
「改めて言わずとも大方ろくでもねえだろ」
「失礼だな。君が別人のように思えたことについて真剣に考えていたんだ」
「別人だって言ったら？」
「そう別人――え？」
「ほら、だから言ったじゃねえか」
　確かめなくていいのかって。
　月を背に立ち上がった零崎が、ぼくを見下ろして薄く笑っていた。逆光でも分かるほどに白い歯が光っていて、この世の人ではないかのように錯覚する。
　ああ、今日は満月だったのか――なんて悠長なことを思った。無邪気に笑う少年越しに、ぎらぎらと自己主張をしている。手前の狼よりよっぽど肉食派だ。その狼は、牙を持たなかった。正確には、保てていなかった。なぜなら突き出した犬歯はうっすらと青を帯び、獣の目をした満月を透かしていたのだから。ダイヤモンドが仕込まれているのだという爪も、グローブをしていない指先からじっとりと空気に溶け、実体の不確定さを助長していた。
　零崎が喉を鳴らして笑った。ネタ晴らしできた愉快さとも、ぼくの愚鈍さを嘲笑ったともとれる。
「改めてコンバンハ、戯言遣い。ああ、戯言はもう辞めたんだっけ？それにしたってこんな間抜け野郎が俺の鏡だったなんて、世も末だな」
「……待っ」
　待て、と手で制するぼくを、相変わらず愉快そうに見ている。鏡だった。過去形だ。話が急展開過ぎる。けれど一つだけ、これだけは。本当にこの世の存在でなかったというならば。ぼくが見えていた理由がなんにせよ、実際に視覚化されていない存在ということだ。ということは。ということはだ。
「人が寄り付かなかったのってきみのせいじゃん」
「そこかよ」
　底なし沼がいびつに笑った。

5月13日の孤独