　落雷に身を強張らせることがなくなったのはいつからだったろうか。
　轟音と共に建物が僅かに揺れる。視界の隅で明滅する光を捉え、視線だけを窓の外へ移すと、町行く人々は突如降り注いだ雨粒から逃れようと奔走していた。咄嗟に鞄を掲げる者、逆に鞄を抱える者、屋根を求めて辺りを見渡す者、弾かれたように走り出す者……。
　蜂の巣をつついたような喧騒の奥で、硝子越しの明かりがふいにかき消える。
　ひとつ、ふたつ、と数えるような速度ではない。誰かが故意にブレーカーを落としたかのような、夕暮れも迎えていない空が急いて夜の準備を始めたような強引さで、覆い隠すように、こそぎとるように光が奪われてゆく。その正体が停電だと気付くのにそう時間はかからなかった。
　管轄内にある建物は、構造上落雷の衝撃を受けても大事には至らないように造られている。管理会社へ一報を入れてエラーの報告が上がっていないことを確認すると、茨の指先はとある連絡先を求めて画面をなぞる。
　発信。無機質なコール音。コール音。コール音……。
　九度目のそれを待たずに切り、そのまま画面をスライドさせてメッセージ画面を開く。
　既読が付いていない数刻前のメッセージを視界に入れると想定内のため息を吐いた。
　場所は把握している、が。その場所で雷に打たれて倒れていましたなんてことが無いとも言い切れない。定期的に音信不通になることを考えれば些か過敏かもしれないが、今なお肌を無遠慮に駆ける振動は、こびりついた記憶は、なかなかどうして茨の警戒心を解いてはくれない。
　管理、そう、管理だ。雷が落ちようと電気が落ちようと日が落ちようと、正常に動作していれば何も問題はない。確認を怠らないことは決して悪いことではないのだから。自分に言い聞かせるように声に出さずに呟くと、再びメッセージ画面と向き合った。
　窓の外ではまた一角が光を失っている。機材の安全のために自ら落としたのかもしれなかった。
　そんなふうに夜に紛れるように隠れたところで、暴かれてしまえば意味はないのだけれど。
「……まだいたんだ」
　こんなふうに。
「……すごい音だったね。資料室にいたんだけど、エレベーターが止まっちゃったりすると困るなと思って、早めに出てきたんだ。そうしたら電気が点いていたから」
　携帯も部屋に忘れてきちゃったし、と存在感を無二にする明眸皓歯の麗人はあっけらかんとしてみせた。
　落雷に身を強張らせることがなくなったのはいつからだったろうか。
　硝煙の臭いが伴わない音は『それ』ではないのだと脳が漸く理解したからか。
　それとも枯淡の境地にあるような、稲妻よりも苛烈な存在を知ったからか。
　たとえば、そう、眼前の才人のような。
「それはこちらの台詞です。何のためのオフですか。しっかり休んでいただかないと困ります」
「十分休んだよ。休みすぎても、逆に調子を崩してしまうから」
　だからいつもより早いでしょ、と微笑んで見せる男に「早いも何もあんた今日はオフでしょうが」と舌打ちをしたい気持ちを押し込んで「車を手配しましたので」とだけ告げる。
　凪砂の探求心は落ち着いたと見えて異論を唱えるようすはない。
　ああ、毛先がすこし跳ねている。資料室の窓は開いていたのだろう。湿気でゆるやかにカーブを描く髪質はスタイリスト泣かせではあるだろうが今は知ったこっちゃない。無造作に埃を被ったであろう美しい銀糸にシャンプーをするも嫁入り前の少女へ施すような手厚いケアをするも後回しだ。
　ドン、と地鳴りのような音がして、遅れて空が明るくなる。
　もう落雷に身を強張らせることはない。
　ない、はずだったのだけど。
「……閣下、その臭いは？」
「……ん、ごめん。やっぱり気になる？」
　窓を開けていたら喫煙室が風上にあったみたいで、と続く答えは十分想定内のものだった。だのに尋ねてしまったのは少なからず動揺していたからか。遠い雷鳴が、いつの間にか目と鼻の先まで迫っていた気分だった。
　浮きかけた奥歯をゆっくりとただしい位置へと戻す。
『あなた、反射神経がいいのは良いことですが、本能が先走るのか思考が置いてけぼりになりますね。戦場でそれでは我に返ったときには死んでいます』と硝煙のにおいと同じくらい聞き慣れた声が脳裏に響動む。なまじ図星なだけに腹立たしい。
「……茨、雷が嫌い？」
「何故そのようなことを？」
「苛々してる」
「あっはっはその理由はご自分の胸に手を当てて考えてくださればよろしいかと！」
「……私の胸が、君の心境を答えてくれるとは思えないな。ねえ茨。私、何でも出来てしまうけれど……。ESで色々な人と接して気付いたんだ。私たちは殊の外、言語が無ければ対話ができないし、茨が開けてくれなければ私はその胸中に踏み入ることすらできない。だからもう少し君の言葉を聞いてみたいとも思う」
「入る必要はありませんし、吐露する予定もありませんよ。無闇矢鱈に開放するものでもないでしょう。それに」「ああ、火薬の臭いが嫌いなの？」
　遮った瞳の平たい温度がまたも記憶を揺さぶる。
　おそろしく回転の速い思考が軽々と到達した察しの良さが、今はどこまでも癇に障る。
　煙草の臭いがいけないのだ。判断を鈍らせるどころか、とめどなく澄んだ意識を形成してしまう。
「…………いいえ？」
「……そう。じゃあまた晴れた風のない日にでも続きを話そうか」
「何が『じゃあ』なのか皆目検討が付きませんが……。気は済みましたか？　いい加減帰りますよ、明日は朝からロケの打ち合わせがありますからね」
「そうだね、時間はあるし」
「ええ、有限な時間がね」
　対話は静かに決裂し、そうこうしているうちにまたひとつ、轟音と共に稲妻の新しい中心が生まれる。鼻をくすぐる懐かしいにおいは茨の記憶をいたずらにかき混ぜては嘲笑い、そしてそのたびに意識を正すことのできる、これは謂わば気付け薬のようなものなのだと思っている。
　己を形成する翳りを切り捨てる選択肢を持ったことはない。
　七種茨は、七種茨の翳りを愛している。
　何事も暴かれて意味を失くすと言うのならば、意味を持たせればいいだけの話だ。
　もう落雷に身を強張らせることはない。あれだけ気を張っていたのはまるで太刀打ちできない御せない存在だったからだ。今ならば荒野の中央にだって飛び出せるだろう。無鉄砲ゆえではない。根性論でもない。蓄積された経験値が現実的な科学に基づき大いなる武器として活きることを、この身を以て実証を終えているのだから。
「……私、吸ってないよ？」
「分かってますよ」
　沈黙を喫煙の懐疑と捉えたのか、こくんと首を傾げる仕草が妙に稚拙で笑ってしまう。いくら美しくとも、俗世には無知でも、内包する可能性は着地点を把握できないままに野を焼く兵器に等しい。この無邪気で快活な落雷のように。
　凪砂は本気で弁明しようという気はないのか、ぼんやりと雨飛沫を眺めている。

絶えず浮動し、永続的なもの