　午前四時四十八分、冷房が止まった。
　「止めた」と言ったほうが正しいかもしれない。操作主がそうするように仕向けたのは、他ならぬ日和だったので。
　起こしてしまったかと問うと「起きてほしかったんでしょう」とすぐにこちらの目論見を看破された。夢路から無理やり連れ出された男の意識は、案外しっかりと覚醒しているようだった。
　日和はよくジュンを起こした。時間帯は明け方。あまり規則性を知らしめるのもどうかと思い、服装はいつもまばら。部屋着、あるいは制服、練習着……。
　イブニングコートを纏ってみたこともあった——が、夜が寝静まった中、星々の目を盗みながら意味も無くドレスコードに袖を通しているときの言葉にし難い空虚感に耐えかねて、一度で止めた。ジュンは日和のおおよそ寝起きではない服装に何か言いたげな視線を向けるものの、言及してきたことはない。そうさせない空気を敢えて作ってきたのも、やはり自分だった。
　実際、社交場に駆り出されて深夜に帰宅したこともある。そして、そういう日ほど日常の装いへと着替えた。
　自らの立場が影響する気持ちの切り替えに——その理由に、親しいひとを使いたくなかったのだ。
　日和はただ願いを持っていた。自分と自分が切り替わる境目に、誰かに立ち会って欲しいという浅ましい願いを。つなぎ目があってもそれが自分なのだと、説明も弁明もなく、ただ静かに「巴日和」という人間の遷移を知るひとが存在してくれていたらそれだけで救われるような気がするのだと、凪砂にこぼしたことがある。言葉を覚え、感情を覚え、一歩ずつひとらしさを積み上げてきていた青年は淡く笑って日和の言い分を首肯してくれた。
　いつか、日和くんがそのつなぎ目を均すことができたらいいね、と。
　その瞬間は格別な喜びに満ちていて、正しさを求めて渡り歩いた日々の中、今なお冴え冴えしい記憶として日和の内に佇んでいる。
　夜明け前の空の表情はあの日となにひとつ変わらない。もう随分と見慣れた、ひかりと共に移りゆく色。窓の奥のそれをぼんやりと追いかけていると、背後のジュンが僅かに反応を示した。衣擦れに紛れてしまいそうな響きだった。彼を拾い上げた、謂わば運命の絶対音感じみたものがなければ聞き逃してしまいそうにかすかな声。この耳に容易く舞い込んだそれは名残惜しさを滲ませていて、こぼした本人も今頃気づいたようだった。飴色の瞳は、波の花の如くみるみる揺らぎに染まってゆく。夜とは真反対のその色を、日和は純粋に美しいと感じた。夜の中にもひかりがあるのだ。沈黙を利用し、日和はしばしその輝きを堪能したのだった。
　そんな日和の視線から逃げるようにキッチンへ消えた背中は、数拍置いてグラスを手に帰還した。ああ、喉が渇いたと告げたんだっけ。本当は余計な言葉が喉元にこびりついている気がして、それを洗い流してしまいたかっただけなのだけど。受け取ったグラスはきんと冷たく、みずみずしいレモンの香りが鼻先をくすぐった。
　自身もグラスを口に運んだジュンはほうと息をついている。日和のために準備したと言いつつ、ジュンもレモン水の持つ清涼さに救われているように見えた。
「ところでなんでレモン？」
「あー…………その、意識が正常になりそうだったので」
「その間は何？」
「いえ……」
　下降していく視線。
　間を埋めるように、からん、と氷が音を立てて崩れ、室温が上昇していることを知る。この時期は早朝から蒸し暑い。冷房を止めずとも良かったのではとも思うが、止めていなければ先ほどの声を拾うことはなかっただろう。きっと、レモン水のグラスを冷たいと感じることも。
　薄明の空はため息が出るほど麗しいというのに、日和の意識はどこまでも部屋の中に在った。
「……別に、あんたのご機嫌取りをしたいわけじゃないんですよ」
　浮遊する意識を見かねたように、ぽつりとジュンがこぼす。
　ひとつまばたきをして彼を見やると、群青の髪を透かした睫毛に影が落ちている。そこにあるのは翳りというよりかは焦燥だ。先ほどの問いに対する答えの続きだと一拍遅れて把握した日和に、気づく余裕もないようだった。
「きみがおべっか使いじゃないことなんて知ってるけどね？」
「いやまあ、それはそう、なんですけど……それでも悩むことはありますよぉ。どう答えるのが正解なのかとか、あんたを幻滅させないのかとか、今後やりやすいのかとか、そんなふうに下心みてーなもん、抱くことだって」
「馬鹿だね」
「うぐ、分かってますよぉ〜……」
「そんな答えひとつで何かが変わってしまうことなんて無いね」
「……おひいさんは強いすね」
「強くなきゃいけないからね」
　ぼくはおひいさんだから。
　続けた言葉は久方ぶりに声に出した暗示で、日和は言霊の効力が薄まっているのを感じた。時間帯の所為だ。徐々に光が溶け、どんどん薄まってゆく夜の濃度につられている。日和は魔法が溶けかけているような心細さを覚え、窓に手をあててかつての色合いを取り戻そうとした。
　けれど夜は早々に撤退していた。薄まった夜は朝へと形を変えている真っ最中で、あれだけ欲しかった見届け人の役割を、自らが担っている状況。
　いつか自分が「巴日和」としての役目を終えたときは、この自我も至極色に溶かしてくれたらいいのに。そうしたらきっと、増えすぎた大切なものの行く末を憂うこともない。遠ざかる黒曜石の空に思いを馳せながらそんなことを思った。
（それはそれで、かなしいことのような気もするけれど）
　それでもその悲しさを抱えているのが自分ただひとりなら、この世に悲しさは一人分で済む。それもまた、日和が望む隣人の愛のひとつの形なのだ。自己犠牲なんていう大それたものではない。愛を与えるべき人に、悲しさを与えずに済む。ただそれだけのこと。
　カーテンが頬に当たり、ふと顔を上げた先でジュンと目が合う。痛ましさを孕んだ瞳にこれは何か変な想像をしているかねと日和はからりと笑ってみせた。
「今から世界一不毛な話をするからね」
「はぁ」
「たとえばぼくが巴の家に生まれなかったとして」
「……」
「たとえばぼくが特待生ではなかったとして」
「……」
「たとえばぼくがきみを選ばなかったとして」
「おひいさん」
「たとえば『きみがぼくを選ばなかった』として。たとえばぼくが」
「おひいさん！」
「——『巴日和』になれなかったとしたら」
　きみはそんな風に悩んだりした？
「……自分がダメージ受ける不毛な話、止めたほうがいいですよ」
「自分しかダメージを受けないなら一番気楽じゃない？」
「だからそれが――まあいいや。悩みません」
「わっ意外と非道だね！」
「自殺紛いなことしといてよく言う……。当たり前でしょう、オレとあんたがはなから他人なら悩む理由が生まれないじゃないですか。それに忘れたわけじゃないでしょう、あんたが言ったんですよ、結果論だって。今こうして『Eden』として、『Eve』として舞台に立ててる状況がすべてで、逆算のたらればなんてナンセンスだって、あんたが言ったんですよ。なのに今更何を悩めってんですか。悩んでほしかったなら、嫌だと突っぱねてほしかったのなら、あんたもっと賢くやるでしょう。ねえ、暑かったのならエアコンを止めたことを怒ったっていいんです。オレがオレの意思で止めたように、あんただってあんたの意思で選んでいいんですよ。そんなの、オレに言われなくたってずっとやってきたでしょうけど、でもあんたの意思の下には常に『誰かのための意思』が存在してる。ねえおひいさん、誰にだって、自分が涼しくなるためにエアコンを付ける権利があるんですよ」
「ジュンくんのくせに正論」
　でもちょっとまだるっこしいね、と唇の端をつり上げてみせると、夜色の髪で覆われた目元がほんの少し和らぐ。
「伊達に誰かさんに論破されまくってませんから」
　茶化すような言葉とは裏腹に、ジュンの表情にはうっすらと疲弊が見えた。なかなかどうして、伝え合うということはエネルギーを要する。
　ジュンの声が途切れたあとにもたらされたものは再度の沈黙だった。十秒だったかもしれないし、五分だったかもしれない。暑さに翻弄されない時間だけが、悠々と我が道を駆けてゆく。この瞬間にそれをひどく羨んでいるのはきっと、世界にたったふたりだけだった。
「与える側の人間としての自覚と自信を持つべきだとか、卑屈さを美学と呼ぶこともないことはないけどオレらみたいな立場の人間には不相応だとか、そのへんはもう耳タコなんで流石に改めようと努めてます。だからあんたがどう思うか、じゃなくて、オレの発言がどんな影響を与えるか、そっちがよぎって。あんた相手じゃなくても、オレはきっと迷って、考えました」
「……」
「だからその〜……聞いてます？」
「……っふ、は！　ははは！　だ、だってジュンくん、顔！　なっさけないね！　言ってることは立派なのに顔……っ！　あは、捨てられてたメアリのほうがよっぽど逞しい顔をしてたと思うね！」
「くそうるせぇ～……！」
「あはは！　口、悪！」
　良い傾向だと思うけどねと素直に告げるとまた落下する視線。なるほど、彼のその所作は気まずさではなく気恥ずかしさから来ているパターンもあるらしい。
　指先を濡らす結露はいつしかつま先にまで水滴を落としていたが、室温と共にぬるくなったレモン水は人の意識を引くほどの冷涼さを失っていた。そしてあれだけ部屋中の酸素を征服していたレモンの香りも、疾うに霧散していた。もう思い出せない。まるで幻想から覚めたかのように。
「ジュンくん、ほんとに大きくなったよね」
「親戚かなんかですかあんたは」
「ふふ、感覚的にはそうかも」
「嬉しくねえ……」
「伸びしろ十分ってとこだね」
「はいはい精進しますって……」
「あ、夜が明けたよ」
「そうっすね」
「ありがとうね」
　さくさくと相槌を打っていたジュンが弾かれたように顔を上げる。
　飴をゆがいた瞳がおおきく見開かれ、かたちの良い唇が数度開閉するが、結局音になることはなかった。
　自分はどんな顔をしているのだろう。そう思って覗き込んだ光彩に映る顔は思いのほか緊張感のない表情をしていて、人のことを言えた義理ではないなぁと無性に可笑しかった。鏡代わりのそれがやっぱりすぐに角度を変えてしまったので、それ以上覗きこむことは叶わなかったけれど。
　日和はよくジュンを起こした。時間帯は明け方。この意識が生まれ変わる瞬間の見届け人を求めて、待ち望んだ刻にひそやかに胸を踊らせる。
　日和はとっくに選んでいたのだ。
　それを面と向かって伝えることは、まだしないけれど。
　そんな自分の心情に反して、彼の瞳は決まって夜明けに影を帯びるのだった。真意は彼にしか分からない。いつか生まれるだろうか。レモン水では覚醒しきれなかった、彼の意識を上層へと引き上げる何かが。

「誰かと共に渡る夜のうつくしさが命綱になること、いつかジュンくんも知るといいね」

　そうして越えた夜の先、やがて朝日がさざ波のように押し寄せてくることを、日和は確かに知っていた。