「夏が終わるね」
　明けない梅雨、立て続けの台風、立秋とは名ばかりの猛暑、それらすべてを通過し、体感気温がゆるやかに下る昼下がり。日和が先の言葉をこぼしたのはそんな秋の入り口だった。
　まるで正当な血筋であるかのように夏がよく似合う男は特に惜しんでいるわけでも、驚きを含んでいるわけでもないようだった。ただ明らかに第三者へ向けられた声色のそれを無視するのも憚られ、茨は居住まいを正しながらにこやかな表情を作ってみせた。
「ええ！　先週からは十度ほど気温も下がるようす！　過ごしやすい季節になるかと思われますが、夏の申し子のような殿下におかれましては郷愁に浸っておいででしょうか！」
「その返答はちょっと暑苦しいね。折角来た秋も逃げちゃうね」
「これは失敬！」
　だから煩いね、と日和がタブレットから目を離さずに息を吐く。
　女性のような顔立ちではあるが、日和はすらりとした長身に比例して手が大きい。ぴんと伸ばした手よりも一回り大きいタブレットを左手で支えながら、右手は熱心に画面を叩いている。覗き見るような無粋な真似をするつもりはないが、ピアノを弾くように長い指先を躍らせている姿は流石に絵になっていた。日が徐々に木陰に入り、室内に淡く影が落ちる中、液晶の光に照らされた頬は陶器のよう。昔、気まぐれに入った教会にあった像はこんな顔をしていたかもしれない。茨は懐かしくもない記憶を適当に反芻した。
　会話が完全に途切れたのを良いことに、書類へと目を戻す。ジュンも凪砂もいない今、日和と踏み入った話をする展開は避けたかった。後ろめたいことがあるわけではない。ただでさえ掴みにくい日和の真意を察するのは骨が折れるのだ。夜も会談を二本控えている、無駄に体力を消費するのは回避するに越したことはない。日和はこの後予定はなかったはずだが、ジュンの帰りでも待っているのだろうか。
　そのまま二刻ほど文章を打ち続け、データがクラウドに保存されたことを確認して一度ファイルを閉じた。会談までは時間がある。珈琲はすっかり冷めていたが、乾いた喉を滑り落ちるには十分な心地よさを保持していた。
　スマホを取り出して日付を確認する。九月。もう、とも、まだ、とも感じることはない。積み上げてきた末に到達した九月だ。日々の蓄積は余すところなく茨の中にあった。すべてが順調とは言い難いものの、事は目指す方向から大きく逸れることなく進み続けている。
　この春には思いがけない再会もあった。といっても施設の現状は把握していたし、出所後に完全に縁が切れたわけではない。無論、凪砂の生い立ち同様に公になれば厄介であることは間違いないが、こういったことは隠せば隠すほど墓穴を掘るのだ。人生の一端とも呼べぬような身の上話ひとつで足元を掬われるのは御免だし、だからこそ茨は臭いものに蓋をせずに構成要素のひとつとして持ち続けた。自分の人生がこんな有り様だ。だから「彼」が花屋を営んでいるという情報を得たことも、全くの予期せぬ出来事というわけではなかった。先に頬を腫らしてきたかつての上官を笑い飛ばしたのち、自分も同じように顔を腫らしたのは流石に間抜けだったかもしれないが。
　それでも順調だ、と茨は思う。
　分かっている。それは調子に乗ると痛い目を見るなどということではなく。ずっと、一人でも最後まで生き延びる算段と共に数々の手を打ってきた。今だってそうだ。たとえ先の仲違い企画のようなことが現実に起こり、ユニットが崩れたとしても、この先の延命手段を常に持っている。けれど現状、その手は「一人でも生き延びる目的の達成」に留まるのだ。だから得策ではない。それも分かっている。情が生まれたことを肯定したとしても天秤にかけた末の選択であり、そこは変わらない。変えるつもりもない。分かっている。『足を踏み外したら死ぬと思え』、その感覚は銃を背に岩肌を掴んでいた頃も今も同じだと。
「夏が終わるね」
　再び通る声。
　タブレットを膝に置いた日和が、まっすぐに茨を見つめていた。
「どういうことだと思う？」
　日和は時折、謎かけめいた問いを寄越す。試されているな、と、隠さない瞳の二重の問いを察する。茨を射抜くその光彩は無機質な部屋には似つかわしく、異彩を放っていた。視界に入るに値するか否か、美しい装飾品を矯めつ眇めつ眺めるときのように人を見定めているのかもしれなかった。
「『秋が来る』という時間の経過と『暑さが失せる』という気候の経過——という答えは殿下の求める正解に沿いますか？」
　半分正解かね、と構えていたよりも気の抜けた声が飛ぶ。
「夏が終わると、夏の太陽が居なくなってしまうだろう？　あれは一年で一番強い火球だね。だから気を付けたほうがいいね。太陽の力が弱まると、人は欲が出てしまうから」
　欲、と呟く。吐息のようなそれを聞き止めた日和が目を細め、まばたきをするたびに見え隠れするラベンダーアメジストが淡く揺れた。清廉な色はただ静かに本音を促す。
　発言を、本心の吐露を許してしまいそうになる。
　茨はこの色が少し苦手だった
「輝度が落ちると『嗚呼、今なら届くかもしれない』ってね。きみは馬鹿ではないからそんなふうに愚かに手を伸ばして焼け死ぬことはないと思うけど、その光は確実に網膜に支障を来すね。傷が付かなくても、見えなくなってしまえば傷が付いたことにすら気づかないからね。たちが悪いね」
「……ご忠告痛み入ります」
「あはっ！　別に忠告なんかしてないね！　ぼくはいつだってぼくのためにお喋りをするだけだね！」
　だから。
「だから来週のライブにぼくは出演しないね」
「………………」
　この野郎。
　この野郎！
「あれっ怒らないね？　言葉も出ない？」
「……いえ、その線も予想してなかったわけではありませんので」
　しかし、しかしだ。一ヶ月調整を重ね、あとはリハを残すのみというところまで来れば出るものと見込んでいても仕方のないことではないだろうか。
　最近は突然ボイコットされることも減っておりましたので！　と半ば自棄になって添えてみたが暖簾に腕押し。
「うん、茨がそんなふうに考えている感じがしたからね。今言ったね」
「あー畜生」
「口が悪いね」
「育ちが悪いもので」
「うんうん、それがきみの免罪符だね」
「…………」
　これだ。
　どこまでもうまくいかないのは八割方この男の所為なのだ。最近は凪砂も確認を取る前に独断で決めてしまうことが増えたが、彼の場合は今まで宙ぶらりんになっていた自我が確立してきたようなものなので、神から人への歩みを進め始めた以上、一連の行動は想定の範囲内だと認識せざるを得ない（腹は立つが）。全部計算して立ち振る舞う日和のほうが余程たちが悪い。
　当然、日和抜きでEdenのライブが成立するはずがない。実力云々の問題ではない。そうあるべき本来の形が欠けた姿を晒すのは得策ではないのだ。フルメンバーでなくても頑張ってます！　というステージで人の心を動かす展開が功を奏す場合と仇になる場合がある。現状のEdenは当然後者だった。
　なんてことはない。ここまでの着地の見えないお喋りも、要領の得ない提言も、すべてはこのためだ。茨の手を止めて、思考を散らして、最後に一振り。
　あーくそ。立て直しだよ。死ぬと自分以外の二人が落ち込むから雨の日にお綺麗な白い服でいっぺん派手にすっ転べばいいのに。
　茨がちゃちな呪詛を脳内で唱えている間に日和は身支度を整えたようだった。薄いケースにしまい込んだタブレットを右手に抱えながら、左手でスラックスのポケットに入った財布の存在を確かめている。
「……お帰りで」
「うん。用は済んだからね」
「……」
　なるほど。
　こちらの仕事が終わったころに決定事項を言い渡す目的。
　……なるほど！！
　苦虫を噛み潰したような顔で最早笑みを貼り付けることしかできない茨の表情を認め、唇の端を持ち上げた男はどこまでも優雅に言葉を紡ぐのだった。
「ねえ茨、来週のライブ、ぼくが辞めると言わなければ本当にこのまま出演するつもりだった？」
「……」
「分かってたよね。一昨日、共演者が分かった時点であまり芳しくない相手だって」
「……その件で、夜に交渉を行う予定だったんです」
「共演者の変更を？」
「それも打診する予定でしたが、殿下のお耳に入ればこのような展開になることが見えていたので。変更が叶わぬのならせめて自分が先に相手方とコンタクトを取っておけないかと」
　というか、共演者の情報はまだホールハンズでも公開されていない。リーダーと連絡役である自分にのみ伝えられ、日和はまだ知らないはずだったのに。
「凪砂くんが教えてくれたね」
　そんなこったろうと思ったよ。
「玲明で一度不祥事を起こしてるユニットだからね。流石の凪砂くんも心配してくれてね。不祥事の原因がEveに負けた腹いせにぼくについてあることないことネットで広めてくれちゃったりした件ともあればねぇ」
　ぼくのファンはそんなデマゴギーに翻弄されたりなんかしなかったけどね！　と日和は大声で笑い飛ばすが視線は氷のように冷やかだ。とても「ファンは慣れてたんじゃないですか」などと言える空気ではない。
「当時、結構話題になったから企画主が知らないはずはないんだけどね。過去の因縁を引っ張り出して対決に熱を入れたかったのかもしれないけど、そんな不誠実な理由でステージに立つ必要はないね。きみはきみでつてを得たかったろうけど、今回の成果で得た糸を命綱にするくらいならぼくは茹で窯にでも地獄にでもこの身ひとつで飛び込むね！　人がそれを無謀で愚かだと嘲っても——このぼくの魂に傷がつくよりは数倍マシだと思わないかね？」
　光彩陸離たる才知を引っ提げ、うっそりと微笑む男の目も眩むような美しさと言ったら。
「お言葉ですが、自分が今回受けたのは決して利益先行ではなく、玲明での一件を払拭できるのではないかと考えたからです」
「どう考えても余計なお世話だね」
　一刀両断とはこのこと。
「きみがぼくのことを物凄く馬鹿だと思ってるなら今改めてもらえれば問題ないんだけど、そうでないならそもそもの問題だね。ぼくがかつての出来事を不名誉と感じているとすればそれを払拭できるのはぼくだけだね。きみの仕事じゃない。巴日和の名誉は巴日和にしか書き換えができない」
「ああもう、分かりました、分かりましたよ！　自分の認識が甘かったゆえの不手際！　大変申し訳ありませんでした！」
「うん、全部分かってるとは思えないけどとりあえず分かればいいね」
　自棄糞になって振り上げた言葉の拳は行き場を失くし、重力に従って落ちる。
　日和のきれいにセットされたヘアスタイルのようにふわふわとした返しに肩透かしを食らいながら、茨は再びファイルを開いた。
　嗚呼、修正、打合せまでに終わるだろうか。終わらせるだけなら朝飯前だが、武器として成立するレベルに持っていかなければ自分の面目が立たない。それこそ、七種茨の価値だって七種茨にしか証明できないのだから。
　気が済んだのか、日和が纏う空気はすっかり平常時に戻っている。
「結果的に殿下が飛び込まずに済んだ地獄で自分が奔走している事実だけは認識いただきたいところですねぇ……」
「ふぅん？　きみがそこを地獄と呼ぼうが天国と呼ぼうが自由だけどね？」
　火球と蛇の間に立った男は逆光の内側、気配だけで壮絶に笑ってみせた。
「峠を越えた先で足を滑らせないことだね」
　あれ、一応心配してるんすよぉという彼の相方からのフォローが入ったのは、太陽がすっかり隠れた頃だった。

残暑を越えて