　サウザンクロスにも、楽園はあるの？
　断片的な、けれどどこか叙情的な、言葉の欠片を繋ぎ合わせる会話が成り立つようになってきた頃。ざっくりと編まれ麦わら帽子が顔に落とす影でさえ絵になる少年は、目線を交えることなくそう呟いた。
　世界はうだるような残暑に包まれていた。丁寧に冷やされた屋敷の中にいれば、ブラウスに汗の染みを作ることもない。レモンティーで作った氷で喉を潤せば、焼けるような熱を抱えることもない。けれど日和は温室にいた。額をすべり落ちる雫を何度ハンカチで拭っただろう。なみなみ注がれたボトルの中身が冷蔵庫のような冷涼さを保っていることだけが救いだった。凪砂くん、熱中症になっちゃうから、と蓋を開けたままのそれを差し出す。素直に受け取った凪砂の額からも玉のような汗が流れている。ひと筋、ふた筋。光を受けた雫の美しさに少しだけ見惚れたあと、日和は手を伸ばして拭ってやった。
　日和を部屋から連れ出したのは、なんと凪砂だった。けれど真夏日に砂漠のような温室にこもりたいなどと、到底大人の許可が下りるはずがない。（ただでさえたどたどしく言葉を紡ぐ凪砂の話は話半分に、という姿勢の大人が多かった。当然、日和はそれが好きではなかった）
　そこで「日和坊ちゃんのわがまま」ということにして、早朝の薔薇の花壇への水やりとヴァイオリンの授業を一時間増やすことを交渉材料に、日和はメイド長の部屋へと挑んだ。スコーンのおかわりをねだるのとはわけが違う。対価を払って得るものは一等価値を感じるのだと、兄に教わったばかりだった。斯くして二人は温室の鍵と冷えたボトルを手に入れた。巴日和、初の交渉である。
　日和に少なからず負荷がかかったことを凪砂も察したらしいが、日和からしてみれば「凪砂のわがまま」を聞いたのはこれが初めてだったのだ。なんとしてでも叶えてやりたい。凪砂の世界が広がるのなら、少しの早起きも、指にタコが増えることも苦ではなかった。
　曾祖父の代からあるというアンティークな温室には、ステンレスの南京錠が付けられている。雰囲気がないね、と庭師に訊ねたところ、以前の錠穴には鳥が巣を作ってしまったらしい。坊ちゃんの部屋から見える鳥籠の中に実は錠があるんですよ。そんな記憶を掘り出しながら日和は温室の中を進む。何度か手伝いをしたことのある日和は、咲いたところを見たことがないバオバブの葉の下に子供二人分のスペースがあることを知っていた。もこもこと広がるアナベル、ひしめくベゴニア、夢のようなブーゲンヴィレア……。初めて何かを求めてくれた友人。可憐で愛しい隣人の願い。どうして温室へ行きたいと言い出したのか、その理由が分からなくても、夏を凝縮したビニールの内側で、視界という額縁に花々を収められる小さな木陰を気に入ってくれたらいい。その成果は、温室のどの植物よりも美しい微笑みを見られたことで十分実感できた。
　そうして彼が硝子細工のような瞳に精彩な景色を映すこと数分。流れる汗の量と減ったボトルの量が同じくらいになってきた頃。そろそろ戻るようかね、と気をやり出したときに凪砂が呟いたのだった。
　サウザンクロスにも、楽園はあるの？　と。
　彼の言うサウザンクロスとは南天の星座そのもののことではなく、昨晩眠る前に共にページを捲った童話の駅名であることは察しがついた。そして温室に行きたいと言った理由が、あの幻想的な景色を求めてのことだったということも。
　日和は思案する。サウザンクロスとは、死者が行く天国——極楽浄土だ。おそらく凪砂の知る楽園とは、ヘミングウェイやロレンス、トマスにベケットといった人の描く幸福の在り方、エデンの園。サウザンクロスに楽園があるのか。日和個人的な考えから言って仕舞えば、それはイエスだ。苦しみから解放され、喜びに満ちあふれた場所が天国に、サウザンクロスに無い筈がない。けれど日和は天国を知らない。当然だ。まだ生きているのだから。そして熱心な浄土宗徒ではない日和が、凪砂の気を引いたカンパネルラと同じ天国を語るのも、少し違う気がした。宗教が違う。祈り方も違う。捉え方も、思想も違う。だから分からない。分からないのだ。あると言って空虚な期待を持たせることも、ないと言って彼の求知心を失望させることも、できることならば避けたかった。幸福さで満たしてあげたいと思うのに、その内々には砂利のように障害物が点在し、闇雲に走れば幸いと同じくらいの不幸せも拾いかねない。なんという切ない哀歓が含まれているのだろう。
　この暑さだ、うまく頭も回らない。——と、そこで日和は、自分たちが長く温室に居過ぎたことに気づいた。流れた汗が顎を落ちて膝を打つ感覚が生々しい。大変、倒れちゃうね、と凪砂の手を取り立ち上がった日和に、凪砂は拒むことも問いかけの答えを催促することもしなかった。出口までの道のりは行きよりも長く感じられた。日和は惨めで仕方がなかった。世界を広げてあげられるだなんて、なんて傲慢な思いだったんだろう。友の問いかけひとつ、満足に答えられない未熟な世界を有する身で。
　温室の外には変わらずに猛暑が蔓延っていた。それでもからりとした暑さが今は心地良い。湿度から解放された瞬間、体の中を海風が駆け抜けていくような清涼さを感じた。押し流してしまいたい気持ちを抱えていたからかもしれない。たった一吹きの夏疾風によって、汗が急激に冷やされていくのを感じた日和は意を決して振り返る。凪砂くん。凪砂は手を引かれるままに芝の上に立って日和を見つめ返していた。
　——ぼく、せっかくきみが好奇心を抱いてくれたことに答えることができない、それがすごく悔しいね。多分、先生に聞けばきちんとした答えを貰えると思うね。でも、正しさを二番目にしても構わないなら、ぼくもきみの問いに心で答えたい。
　まくしたてるように並べたそれは、日和の心の痣だった。どんなに手伝いができる良い子で居ても、ヴァイオリンが上達しても、知識足らずで、どう足掻いてもまだ子供でしかないもどかしさを、彼は自ら見せることで誠実さを示していた。ふいに、五感が鮮明になる。心を開いたことで風通しがよくなったのかもしれなかった。握ったままの手がしっとりと汗で塗れていることに気づいて慌てて緩めるがしかし、繋いだ手は離れない。強く、というほどの力はない。けれど離れなかったということは。
　——ひよりくんの。
　不快指数の高い空気中には似つかわしい、響きさえ芸術品のような声色が日和の耳を打つ。
　——わたしは、ひよりくんのが、ききたい、こたえが。
　砂糖をつまむほどのやさしい握力で手を握り返したまま、凪砂は微笑んだ。温室という絵画を見渡したときのように、美しく。
　その後、なぜか涙が込み上げてきた日和は汗と同じくらいたくさんの水分を失ってしまい、屋敷に帰ってから少し寝込んだ。お見舞いに来た凪砂が本を手に日和のベッドに上がったとき、日和はこのじっとりとした夏にしみじみと幸福を感じた。温室に置き忘れてきたボトルを凪砂が取りに行ってくれたのだと兄から聞かされたのは、熱が引いた翌日のことだった。
　あれから十数年。
　凪砂が持ってきたサークルの台本で久しぶりにその題を見たとき、汗ひとつ掻くことのない快適な寮のロビーで、二人で温室の記憶を懐かしんだ。
「ぼく、あのとききみになんて答えたのか覚えてないんだよね」
　ドリンクバーにしては味が保証されすぎているアイスコーヒーを啜りながら、日和は幾度目かのその話題を口にした。そう、熱に浮かされた影響なのか、本来記憶力に長けている日和ならば当然覚えているはずの記憶が、すこんと抜け落ちていた。きみを落胆させていなければいいけれど。そう口を尖らせた日和に、凪砂は可笑しそうに結わいた髪を揺らした。何度尋ねても、凪砂はそんなふうに笑うばかりだった。
「私がここにいることがすべての答えだって言ったら、日和くんは信じてくれる？」
「あああ、その言いかたはずるいね」
　きみを信じない選択肢なんて、神様を敵に回したってあるはずがないのに！
　隣に座る凪砂の腰に抱き着いても、彼はやっぱり笑ってされるがままだった。
　伝えた答えは覚えていないけれど、今もう一度尋ねてくれたなら、お互いに同じ質問をしたならば、きっと同じ答えを紡ぐのだろう。おそらく、美しい温室とは程遠い地から駆け上がってきた、二人の後輩も。祈りの先に在る幸福が同じ色をしていればいい。大切なのは場所ではなく、共にある存在なのだから。
　そんな鮮やかな夏の余韻の最中、おひいさんレッスン室に水筒忘れてますよ、というメールが入ったときには、日和と凪砂は思わず顔を見合わせて笑ってしまった。

楽園の在り処