　午前四時四十八分、冷房を止めた。自動清浄に切り替わる前に再度ボタンを押して完全に停止させる。無機質な風の音と入れ違いに響くのは甲高い虫の声。たった今鳴き出したわけでもないだろうに、それは結構なボリュームで部屋の中を満たし始めた。夜に聴く分には大して気にならないのに、朝方に聴くと途端に騒音のように感じてしまうのは何故だろう。無意識にリモコンの停止ボタンを押してから、ジュンは覚醒しきれていない思考を起こすように伸びをした。
「うん？　起こしちゃった？」
「あんたが起こしたんでしょう」
「ひどい、ジュンくんが勝手に起きただけだね」
「いやあんた起こさないように動くことくらい容易でしょうに」
　だからわざと音を立てたんでしょうと続けると、薄明るいルームランプの下、やわらかく眉尻が下がる。
「そこまで分かるのなら起きなきゃいいね」
「でも起きて欲しかったんでしょう」
「うん」
　ふつりと言葉が途切れる。人を眠りから連れ出した張本人は椅子に浅く腰掛け、カーテンの隙間から外界を眺めている。太陽と称される見目の整った彼に朝焼けの美しさが似合わないはずがなかったが、どこか空々とした雰囲気は儚さというよりかは虚構さが際立っている。脆さではない。特攻前夜の冷えた覚悟のような。
「冷房」
「ああ、止めました。暑いですか？」
「ううん。でも喉は乾いたね」
　何がでも、なんだ。
「……」
「……」
　日和は時折、ジュンを意図的に起こした。時間は明け方。目覚めたとき、制服だったこともあれば今日のように部屋着だったこともある。イブニングコートだったこともある。そしていつも決まって外を眺めている。あの喧しい口数が涼やかな虫の音に負けるだなんて。そう凪砂の前でこぼしたことがあったが、幼少よりこの男に寄り沿う麗人は「そう。今もなんだね」と含ませた言い方をするだけだった。
　ジュンはベッドから降りると氷をふたつみっつグラスに放り込みながら、窓際に在る横顔を盗み見た。彼の意識は、寮の一室を越えて中天を歩き回っていた。昨夜、あの椅子の上で同じことをしていたのはジュンなのだ。数刻前、窓枠を彩っていたのは深い藍色だった。それが今では黎明の光を浴び、やがて訪れる夜明けの薄群青へと変わりつつある。あの窓が人の意識を誘い、幻想を与える入り口だとしたら、日和が自分を起こしたのは戻れないほど深い夢に入り込んでしまわないよう、いざというときに確実に現実に帰るための保険なのかもしれなかった。
「あ、終わる」
「え？」
「あ、いや、夜が」
　ほとんど反射のように零した声を日和が目ざとく拾う。どういうことかとまばたきで問われた視線に、理由を述べきることはできなかった。レモン水で良かったですか、と続けた下手なごまかしを、日和がそれ以上追及することもなかった。なんでレモン？　と首を傾げる姿に、気分が正常になりそうなんで、と目を合わせずに答えたジュンの内心なんてきっとお見通しだ。
　冷房を切った室内は徐々に温度を上げ始めた。昼中の真夏日のような暑さほどではないものの、熱帯夜の名残はじわりと汗を誘発する。警告のように溶けた氷が音を立てても、日和は動かない。喉以上に乾いたものが未だ満たされていないのか、彼の意識は窓の外から戻らない。たとえ日和が本当に保険としてジュンを傍に置いたとして、日和がジュンを起こしたように彼の意識を引き戻す術をジュンは知らなかったし、そうしなければいけない理由も見当たらなかった。「そうすることが適切なのかが分からない」と言ったほうが正しいのかもしれない。
「五時だね」
「そうっすね」
「ぼく、この時間帯が好きなんだよね。夜が朝に変わっていく瞬間を眺めるのが」
「はぁ」
「リアクション薄いね！」
「いやまぁ珍しくはないんじゃないですか。確かに綺麗だし——」
「さっき言いかけたのはそういうことじゃなかったの？」
　時間差で切り込んできやがった。
　そこでようやくグラスに手が伸ばされる。血の気が感じられないほっそりとした、だけど骨ばった指に張り付く結露に、なぜかジュンが緊張した。
（オレはどっちかってと逆で——……）
　ああ、夜が終わっちまうなぁ。そんな無念さ。
　子供の頃、夜は自由だった。電気を消し、月明かりに向き合ったあの瞬間。そこから夜が明けるまでは自分だけの世界だった。父親の張り詰めた感情が寝静まった夜だけは、ジュンに死のように穏やかな平和を与えてくれた。勿論今は違う。けれど身体に沁み付いた感覚は今なお空の色ひとつで心を一喜一憂させた。日和にもそんな感覚が存在するのだろうか。軽々に移りゆく空とは真逆の整然たる為人の中に、本質を揺るがす何かが。
「夜が明けたね」
「そうっすね」
　うつくしい夜と朝のグラデーションに頬の色を好きにさせながら呟いた彼にとって、それが良かったのか残念だったのか、汲み取ることはできなかったけれど。
　ようやく帰ってきた日和の傍で、窓は変わらずに空を囲っていた。日和が悠々と駆け抜けていたはずの空が途端に狭く、閉ざされた空間に思え、何とも言えない虚脱感に襲われたが、レモンの皮を噛んでそれらを散らすことに成功した。酸っぱさに顔をしかめたジュンを見てからからと笑う男の顔に翳りは無い。窓枠の向こうに置き去られた何かは夜明け前のあの瞬間だけ元の位置に戻り、そしてまた打ち捨てられた。それを愛おしく感じることも、疎ましく感じることも、許されているのはたった一人だった。
　朝ごはんはガレットが良いね、キッチンの向こうに消えていく背中を見送りながら、あれだけ騒々しく感じたカワラスズの声が遠ざかっていることに気付く。目蓋の裏側に焼き付いた端然と座す横顔を消せないまま、ジュンはぬるくなったグラスを握り締めた。
　部屋にはレモンの香りが残されている。