灯台下は暗き海
灯台下は暗かろう
見果てぬ先の恒星を望むおまえに
夜闇の急勾配すら恐れぬおまえに
一寸先ほど怖かろう
賢しくあれど　飛び級できない人生の如く
永遠より僅かな距離ほど
恐れるものはなかろう
灯台下は暗かろう
ついに灯火となるおまえに
ついにおまえを灯火としなければならないわたしは
暗き海を伝承する心苦しさなんて
本当は明け渡したくはないというのに

　　　―　わたくしの遠いともだち　―

　大人は答えのない問題を作らない。
　数式も文章問題も、オレたちはひとつの解答に向かって進まなければならない。著者でもその親友でもないオレたちは、どこぞのだれかさんの心境に寄り添って、著者でもその親友でもないどこぞのだれかさんが考えた勝手な答えを提示してマルを貰う。それが学生の仕事なんだよと意外な人が皮肉気に笑ったのを覚えている。
（その勤めを果たさなきゃあ、学生ってなんなんだろ）
　学ぶことが仕事なのに、学び方に異議があったとして、それに反旗を翻したとして、労働基準法はオレたちを守ってなんかくれない。
「失礼、しまぁす」
　じろり、とたくさんの目が真波を捉え、一瞬で散る。
　この品定めをするかのような視線がどうにも苦手だ。やましいことなんてひとつもないのに（まったくないとも言い切れないけど）、どうにも落ち着かない気分になってしまう。
　あの人だったらそんな様子おくびにも出さないんだろうなぁと、自分をこの職員室へ向かわせた二つ上の先輩に場違いに感心した。
　そして、この場違いな場所へ足を踏み入れた理由はただひとつ。
「一年真波です。東堂さ、三年の東堂尽八先輩から渡してほしいって言われたもの、持ってきましたー」
「ああ、自転車部の後輩くんか、ご苦労さん」
　彼、来てんの？　と封筒を受け取る際の通行証のように問いかけが寄越される。今日は多分午後から、と真波が言うと三年生だもんねぇと遠くを見るような声が転がる。
　なんとも返事ができず、真波はあーとかえへへとか適当な返しをした。
「えーと、じゃあ失礼します」
「あ、ちょっと待って代わりに渡してほしいものが。どこだっけたしかこの辺に」
　産休補充で先月入ったばかりの国語教諭が、ぱらぱらと書類を捲る手を止め、書類の山をかき分け始める。
　真波が渡したばかりの茶封筒の上にも無造作にフラットファイルが積まれ、知ってる、これデジャヴになるやつだ、と真波は少し見当違いな納得をした。
　二十代後半ほどの若い女性教師は、こざっぱりとした身なりとは裏腹にずぼららしいという話は聞いていた。美人なのに薬指に光るものもなく、浮いた話がなさそうなのは何か理由があるのだ、と年頃の男女は色めきだっていたが、成る程、少しだけその理由を目の当たりにしたような気がする。
「あったあった。進路指導で使うプリント、東堂くんに渡してくれる？」
　失くしたかと思ったーと額の汗を拭うような仕草ののち、ぺらりとした紙が差し出される。進路指導って聞こえたけど結構大事な書類だ。というかめちゃくちゃ大事な書類だろう。
　……この人大丈夫だろうか。
「……」と。それは意図的ではなく、不可抗力。
　封筒に入れられるでも二つ折りにされるでもない、折り目ひとつない真っ白なそれが、真正面を向いて真波へと手渡されたものだから、まるでお見合いのように文字と向き合ってしまったとしても、真波に非はない。
　真波の視線の先に気付いた教師は、少し勝ち誇ったような笑みさえ浮かべた。
「きみはまだ一年だから見たことないかな。面白いでしょ。進路指導って言うとお固く聞こえるけど、実際こんなこともやるんだよ」
　どうやら見ても問題ないとみて、意識して視界から外していたそれをまじまじと見つめる。
　プリントの上部には出席番号、氏名記入欄。それからオニキスも顔負けってくらい主張された、黒い太字で一行。

『あなたにとっての灯台とはなんですか』

　灯台って、丘の上とかに立ってる、あの灯台？
　なんかの比喩？
　それとも馬鹿正直に「照明器具」でいいの？
　ぱちぱちとまばたきを二回して、思考が校庭一周くらいして、考える。紙面の上で行う、この頭の使い方はあれだ。
「……テストみたい」
「です」
「？」
「職員室」
「……あ。テストみたい、です」
「そうねー。こんなふうな問題を月イチで渡して、面談のときに持ってきてもらうってわけ。でもテストと決定的に違うところがある。分かるかな」
　教師が、まっすぐに真波の目を覗きこむ。
　崩した山を整える手を止め、急かすでもなく茶化すでもなく、真波の言葉を望む。
　――あ、これ苦手だ。
　答えを考えるより先に、そう直感する。
　その真摯な瞳と同じ色を、よく知っていた。
　すべてを真波に委ねる目。教師に彼を見出したのではなく、彼の中に教師のような要素があるのだ、と少し考えれば分かるのだが、職員室に一歩踏み入れたときと同じ、その見慣れた目に射とめられて冷静さは霧散してしまった。
　とばっちりもいいところなその感情の行き先に、真波は他人事のように同情した。
「わかんないです」
　そもそもの彼の瞳がどうして苦手なのか。
「オレには分からないです」
　分かりたいような、分かるのが少し怖いような。
　教師はそうかぁと気にした風でもなく、「答えだよ」と言った。
「テストと違って、ここに書かれたすべてが正解」
　学生を守ってくれるのは労基法なんかではなく、黒曜石が刻まれる紙っぺらだったらしい。
　失礼しました、と閉めたドアの向こう側では「封筒どこいったっけ」と女性教師の声が間延びしていた。

「おつかいご苦労」
「よくできました？」
「よくできました」
「よくできました？」
「分かった分かった、放課後な」
　っし！　と小さくガッツポーズをする単純な性格のかわいいことかわいいこと。
　真波の成果を手にした東堂はそのプリントを見て驚くでもなく、少しの間思案した。三年生も後半。この宝探しクイズのような問題も、いつものことなのだ。
「東堂さんでも考えるんですね」
　いつもと違うのは、真波が介入していることくらい。
「そりゃあ天才ではないからな」
「えっ天才じゃなかったんですか」
「分野というものがあるのだよ」
「そうかぁ」
「その納得はどういう意味だよ」
　人もまばらな三年の教室に一年の真波がいることも、さほど珍しいことではなくなっていた。今ではかえって東堂がいることのほうが珍しい。
　聞いていたとおり東堂は午後からの登校だったようで、机の横にランチバッグもなく、プリントを掴む指もまだ赤くかじかんでいるように見えた。
「真波と東堂まだやってンの、『飴と鞭』」
「荒北さんとはやりませんよぅ」
「要らネっつの」
　同じく来たばかりらしい荒北が机の上にばさばさと参考書を広げていく。三年生なんだなぁと実感するのはいつもこういうとき。ジャージを着ていない細い背中は、なんだか知らない大人のように見えた。
　真波と東堂が年明けからやっている『飴と鞭』、それは自由登校期間に入っている東堂と少し境遇の変わった真波の、ギブアンドテイクの駆け引きだった。
　約束はない。お互い顔を合わせたときに、何か「仕掛ける」それを一方が受ければ成立。今回は「東堂の非登校日に配布された資料を先生に届ける」をクリアしたら「なんでも言うことひとつ」……というわけ。
　約束はない。ただ、「会ったときに何かあれば」というぼんやりとした期待のようなものが二人の間にある。
　無事にテイクの部分を受け取った真波はご満悦顔で、しかしそれ以上に含みを持たせた笑みを浮かべた東堂が、それで、と切り出す。
　それで。
「何を言われた？」
「……東堂さん、絶対分かっててオレに頼んだでしょ」
「それはどうかな」
「あああ、どーりで簡単すぎると思った」
「ワハハ！　眉間の皺が男前だなぁ真波よ」

　――あなたにとっての灯台とはなんですか。
　――君にも宿題ね。土曜学習サボった真波山岳くん。

　真波山岳は、海のような男なのだ。
　ゆらめきの中にあり、空を写し過ぎたかのように真っ青で、大嵐でも受け入れ、大波にもなる、無形の水晶体のような男。そんな感覚の中で生きているから、そんな感覚の上に生きようとしているから。
「オレはお前の揺るぎようのないところも評価している」
「つまり？」
「その波の隙間のどこから覗いても、真波山岳なところ」
「……つまり？」
「少し惚れそう」
「……」
　うまく丸め込まれてしまった気もする。
　そんな形で東堂の思惑通りだったかはさておき、真波も東堂と同じ形の課題を課せられることとなった。
　あなたにとっての灯台とはなんですか。
「東堂さんはなんて答えるんですか？」
　と初手から聞くのは流石に憚られたので、初めに抱いた疑問から紐解いていくのが妥当だろう。
「この課題って、いつもこう？」
「うん？」
「灯台とか、なんか、言いたいことがうまく掴めないです」
「確かに、イエスノーで答えるタイプではないな」
　答えが決まり切っている問題への不満をこぼしたものの、じゃあ解答はありませんという問題を突然出されてもそれはそれで困ってしまう。大人のようには順応できない。
　でも、それは多分真波が高校生の経験が浅いからで、もうすぐ卒業してしまうような、もうすぐ大人になってしまうような東堂には、さしたる難所ではなかったのかもしれない。
「それで？　お前はなんと書くんだ？」
　そんなふうに、傘もささずに歩いていたところに突然まばゆいばかりの星屑をぶちまけられたりするのだから、やっぱり先輩って厄介だ。
「……バツは付かないんですよね？」
「そう言われたのだろう」
「ウン。灯台、灯台でしょう。ううん、オレは」
　真波山岳にとっての灯台とは。
「みちしるべ、かなぁ」
　さもありなん。
　ありきたりかもしれないけれど、と付け足すと、バツはないんだよとやらかい笑みが返ってきて、なんだか気恥ずかしくなった。
「灯台は、みちしるべで」
「なるほどな」
「それで、東堂さんは、灯台なんです」
「ほう、言い切られてしまったな」
「灯台だったんです」
「ふむ、過去形か」
「だって」
　だって、もう東堂が真波のみちしるべではないことくらい、分かっているだろうに、意地の悪い。
　夢中になってペダルを回して背中にしがみついていた、自転車で会話していたあの頃よりも、顔を見て普通の会話をすることのほうが増えた。
　どうなのかな、と思う。
　必死で追いかけていた背中はビッグバンを起こした小惑星のようにさみしげできれいで、ある種排他的で、直視できないくらいに眩しくて、だから真波にとって東堂とはみちしるべというよりかは、方位磁石のように行く先を提示してくれる、埠頭のようなものだった。
　――ただ明るいというわけじゃあなくて。
　真っ暗な海から頭ひとつ出た、灯台の持つさみしさをきっと分かっているあなただから。
　灯台を求めて来る人の期待や落胆、理不尽な憤りを受け止めてしまうだろうあなただから。
「ならば真波」
　だからこそ。
「くるくる回りながらとおくを照らす灯台のすぐ近くは、一体どれほどの明るさだと思う？」
　オレはあなたを理解したい。

　　　＋＋＋

　中学の学習合宿の時だ。
　肝試しをするのにペアを組み、一組に一本懐中電灯が配られた。真波の相手は真波より頭ひとつ小さい、小柄な女子。
　行こうか、と進みだしたものの会話らしい会話が弾むわけもなく、「懐中電灯あってよかったねぇ」と気の抜けた話題しか出せなかった真波の声に、その子は言ったのだ。
（――『でも、こわいね』と）
「『照らせるのは少し先の道。うんと遠くと、そして今を照らすことはできないから』って」
　なるほどなぁと感心したものだった。
　闇を直線的に割る光の筋は、情緒ある蝋燭の光に比べたらはるかに広範囲を明るくしてくれるものの、その子の言うとおりだった。実際、真波は何度かつまづいて、そして数メートル先の水たまりに気付くこともできなかった。
　東堂さん。まばゆいみちしるべ。
　人々を導く凛とした表情の下、足元は避けられなかった沼地をとおって泥だらけだったのだろうか。
　土の上である確信が持てないまま踏み出すその一歩は、こわくなかったのだろうか。
「考えてたんです」
「何を」
「東堂さんが卒業しない方法」
「ばっかやろうオレの未来潰してんなよ」
　だって、と口を尖らせてからつぐむ。
　最近、だって、が口癖になっていることに気付いた。
　責任的に、そして無責任にいなくなってしまうのだから、恨めしい文句は思慕の念で固めた免罪符だと捉えてくれたらいい。
　だって、勝ち逃げじゃないですか。
　そんな子どもじみた我が儘でも。
　だって高校生経験の浅い真波はまだ子どもだから。
「最善策を思いつきました」
「知的な意見を所望しよう」
「卒業をゴールにしなければいい」
「……」
「貴方の背中がゴールだ」
「……」
「いつか超えるために、あなたは止まらないで」
「我が儘」
「今更」
　東堂さん。かつての灯台。

　　　＋＋＋

　真波山岳は海のような男だった。
　我が儘ばかり、自由奔放で、そのくせ全然優しくなんかなくて、どこか甘くて、その実誰よりリアリストであることを知っているから、こちらも優しくするつもりはない。
　それを望まないということも、十分知っているつもりだったから。
　真波。はるか彼方、灯台の子。
　オレをみちしるべと、灯火と呼んだおまえ。
　潰えた火を惜しむことは決してしないであろうおまえ。
　何者でも在れないオレはせめて、灯台となったおまえを見えないところで友と呼ぼう。
　示されたゴールに従いたくなかった我が儘をついにおまえに打ち明けてしまったオレはせめて、この波止場で育んだ三つの灯火を墓標としよう。
　なあ真波。
　戻らない夏に免じて。
　おまえの海に浸ることを許してくれよ。
「東堂さん、あなたにとっての灯台は？」
　海の様な男が笑う。
「――代えがたい、青春」
　真波。新たな光源。
　灯台下は暗かろう。
　見果てぬ先の恒星を望むおまえに、
　夜闇の急勾配すら恐れぬおまえに、
　一寸先ほど怖かろう。
　賢しくあれど、飛び級できない人生の如く、
　永遠より僅かな距離ほど、
　恐れるものはなかろう。
　真波、灯台下は暗かろう？
　ついに灯火となるおまえに、
　ついにおまえを灯火としなければならないオレは、
　暗き海を伝承する心苦しさなんて、
　本当は明け渡したくはないというのに。
「ああ、卒業、したくねえなぁ」
　勘弁してよ、と海が哭いた。
　聖火は手渡された。
　灯台の火は消えたのだ。