一　死なばもろとも

ａ．最初の晩餐

　食事とは実に質素なものだ。
　柔らかいパン、クリームチーズをふんだんに使ったマッシュプレート。王室御用達の特上ワイン。クルトンが優雅に泳ぐオニオンスープは三日三晩煮込み続け、国土の味が充分過ぎるほど沁みている。
　だのに食事は味気ない。
　この事実は変わらないのである。
「旨い」
「美味シイワ」
「白々しいな。関節の隙間からワインが零れているぞ」
「アンタコソ、ソノパンカビテルワヨ」
「ふん、生きている身体には待ち遠しい晩酌が心底嫌になるな」
「嫌ナラ食ベナクテイイワヨ。私ガメルニアゲルンダカラ」
「……君は私と彼が同じ肉体であることを失念していないか？」
というか、メルヒェンとて死人である。
「忘レテナンカナイワ！」
　ばくっ、と少女はチェリーパイに乗っていたしなびたチェリーを頬張った。当然、含んだ先からどんどん体のパーツをくぐり抜け、床に落ちているのだが。床掃除については考えないことにする。
「メルハ、貴族ノ子ヨ」
「ああ、まあそうだったな。継承はどうであれ」
「アンタハタダノ凡人ヨ」
「……まあ、上流部では無かったから否定はしまい」
　イドルフリートは度重なる回帰を経ることで、堪え性を身に付けた。
「上ニタツモノハ、下ニイルモノノタメニ、一定量ノ物ヲ所持シナケレバナラナイワ」
「……」
　こいつも同じか、と目を細める。
　お綺麗所の生活保持のために搾り取られたのは庶民。絞りカスの寄せ集めが修道院に押し掛けてきたのを嫌と言うほど見てきた。
　彼もまた、被害者。
「お得意の搾取か。くだらんな」
「違ウワ。集メルノデハナク蓄エルノヨ」
「そういった奴らのおかげで彼のような死人が生まれるのだと自覚を――……は？」
「持ッテイナキャ与エラレナイジャナイ」
　きっぱりと言い切った少女はイドルフリートの皿にも手を伸ばす。しかし当のイドルフリートと言えば目の前のパイが少女の口に吸い込まれるのを呆然と見ていることしか出来なかった。
「イーイ？貴族カテ、踊ル会議バカリヲ繰リ広ゲテイルワケジャナイワ。上二立ツ以上、見極メナケレバ」
「見極める」
「ソウ、見極メル。国ノ行ク末ヲ」
　胸を張って答えた少女の目は自信に満ちていた。
　見覚えがある。それは、自分の行為が民のために成っているという絶対的な確信を持った目だ。
（ああ、そういえばこの女は生前……）
　上に立つ者にはいくらかパターンがある。贅沢のために金を回さない者。理解のために金を使わないもの。そして一番厄介なパターンとして、救援のために金を振り撒く者。好意が必ずしも補助になるとは限らない。求められているものは本当にそれなのだろうか。目に見えない安定制度を欲する人にとって、金銀の付加価値とは、果たしてどの程度なのだろうか。
「……おかしな晩餐だな」
「ナアニ今更」
　そしてまたワインを嚥下する。零れる。
　それがまるで、与えられたものを上手く受け取ることの出来ない民のようだと思いながら、イドルフリートは冷めたベーコンを口に放り込んだ。

ｂ．爛れた晩餐

「イツダッテ不快ダケレド、コノ空気ガ一番嫌イヨ」
「それは結構」
「モウ！アンタ死臭ガスルカラ近付カナイデ頂戴！」
「君こそその消化出来なかったものの後始末は誰がやると思っているんだね」
「アンタ以外ニ誰ガイルッテイウノ」
「……」
「キャーッ！イヤーッ！ソースヲ付ケタ手デ触ラナイデ―！」
「黙っていれば長々と……これで少しは口を閉じたまえ低脳が」
「フン、ココハ転生ニ至ル前ノ空間。時間ハ進マナイワ」
　ていうか非生者に食べ物を用意する待合室ってなんなのかしら、と唇のソースを舐めとりながら呟く声。
　今更過ぎる感も否めないが尤もである。
「所詮食べたところで何も起こらない。食べた端から食事は元通り、我々の体内には何の変化も無い、というわけだ」
「奇妙ダワァ」
「肉体が死んでる私と存在が死んでる君の晩餐ね、それはしかし貴重じゃないか」
「生キルタメデナイ『食』ハ何ニ為ルンデショウネ」
「決まっているだろう」
「？」
　ミルフィーユにフォークを刺した人形の目が、くるりと疑問を投げかけている。
「食事は生きるための行為。次いで、生きていると思いたいがゆえの無意識下の行為。なぞるように、委ねるように、忘れないように、ただただ同じ行為を繰り返したがるのは、此処では皆同じさ」
　そうして切り分けたステーキをようやく口に運ぶ。時間が経っているのに出来たてのように温かい。なるほど物体の温度すらも巻き戻すのかといささか感服する。
　少女はと言うと、さも意外そうにガラス球の瞳を見開き、顎の下で指を絡ませ妖艶に笑った。
「唄ウヨウニ吐クアンタノ言葉ハ、嫌イジャナイワ」
「そういうときは『嫌いじゃない』ではなく『好き』のほうが好印象だよ、メートヒェン」
「私ノ口カラ聞キタイノ？」
「Ja、と言ったら？」
「……では、貴方のとびきりの童話をお願いしようかしらァ？」
　まさかただで聞けるとでもお思い？
　ゆったりとした動作でひとつまばたきをすると、長い睫毛がうっとおしげに揺れた。一変して艶めかしい空気に、香水を嗅ぎ過ぎたかのような不快感が募った。
「女の愛を簡単に手に入れられると思ったら大間違いよ、低能さん」
「……賢しい女性は嫌いじゃないね」
「あら、『好き』のほうが好印象なんでしょう」
「は、そういう食えない女は退屈しないから大層好みだよ、『フロイライン』」
　一本取られたとばかりに皮肉気に歪めた口元が、スープの水面に揺らいで消える。
　昔から、知を蓄えた女ほど扱いにくいものは無い、と内心で舌打ちをした。会話中も忙しなく動いていた手だが、漸く一息ついたのか、右手は食後の紅茶へと伸びていた。角砂糖を三つ湯気の中に落としている少女の髪を取り、輪郭に沿って顎の下に手を這わせるとついと上を向かせる。
　文字通り、人形のような美しさ。
　何、皮肉に他ならない。
「……そこまで愛に生きる人生、私は真っ平御免だがな」
「だってしょうがないじゃない、愛してしまったんだもの」
　屈託無く朗らかに笑う目元は、まるで人のようだった。
　服を着ましょう、ご飯を食べましょう、家を建てましょう、生きるために。
　そう、少しでも生きるために。
　「在る」のではなく、生きるために。

ｃ．中断された晩餐

「死ニタクナイ」
「……何だ、藪から棒に。今更毒なぞ入っとらんぞ」
「死ニタクナイワ。死ハ醜イ。醜イ死ハ、嫌ダワ」
「肉体は腐敗する。だが人形こそ美の形状を保てるじゃないか」
「イイエ」
いいえ、と少女は――人形は首を振る。
「人形ノ死ハ、壊レルコト。死トハ、無。美シイ死ヲ迎エルコトハ出来ナイワ」
「剥製にしてあげよう」
「意識ハ残ルモノ」
「粉々に砕いてあげよう」
「美シクナイジャナイ」
「星屑のようだよ」
　身をのり出してスープの上に香辛料を散らしながら揶揄するが、小さな瞳の向かう先が膝の上に置かれたままのスプーンから離れることは無かった。
　少々面白くない気持ちで、揉みつぶした仕上げのハーブを手放す。薄く開いた口元からぽたりと落ちた滴が、まるで伝い落ちた涙のように錯覚した。
「屑デモ構ワナイワ、ッテ？……フフ、悪クナイカモシレナイワネ」
「君は何のために次を望む」
「彼ノ、タメ。彼ニ会ウタメ。彼ト共ニ、在ルタメヨ」
「果たしてそれだけかな」
　イドは囁いた。人形は堕ちた。
　どうして？
　どうして輪廻を辿り続けるの？
　それは、多分――。
「死ニタイ、カラ」
　共に歩む心地よさを知った。幸福を実感した。引き裂かれる痛みを体感した。しかしそれ以上の至福が、其処には在った。一度食べてしまえばもう逃れることが出来ない、心地よさに塗れた呪縛。狂おしいほどに純粋な、哀情。
「メル、愛シテルノヨ。地獄ニオチテモイドニオチテモ貴方ヲ愛シテイルノ。貴方ト共ニアルダケデハ満足ガ出来ナイ。貴方ト共ニ、朽チルトコロマデ共ニ在リタイト。ソウ願ッテシマッタノ」
　言葉の涙が溢れた人形は機械のようにぽろぽろとそれを流し続けた。酷く哀れだ。哀れで、滑稽で、それでいて、いたく美しかった。虚ろな目を覆い隠すように手を添え、懐かしい愛しい彼の声色で囁く。
　復讐しよう、彼と君が『そう在れない』世界に。
「……メル？ココハ、ドコ？マタ同ジ場所？」
「『いいやエリーゼ、まだ寝ぼけているのかい？ここは井戸だよ。さあ、復讐しよう。私たちの存在意義を懸けて』」
　撫ぜた頬は冷たく、しかし男の手にも温度が無い以上、そこに熱が生まれることは無い。
　そうして童話の最初に直結した、幾度目かの扉は開かれる。
「天秤に腰掛けることすら出来ない、哀れなビスクドール。私が君に同情してやろう」
　底に光るのは、錆び付いた銀のスプーンだけ。

（ねえ、私憧れてたの。紅潮する頬、美食家の舌、血肉の詰まった身体。でも何より憧れていたのは、脈動していたそれらがぴたりと止まる瞬間。冷えていく身体。暖かかったという事実。血の気の引いた顔。血が通っていたという事実。）

（――生きていたという、事実。）

二　主人公のいない物語

ａ．種

　地平線に属さない空間の空は常にグレーだ。果たして空と呼べるのかも怪しい。
「……ナアニソレ」
「見たままだろう」
　胡乱気な目つきを乗せた赤い目尻とは対照的な、しかしその瞳をくり抜いたような青さの石が風に揺られていた。
「空が夕焼け色にでも見えるのかい、メートヒェン」
「……ウッサイワネ」
　涙なんて出ないのに、意思を持ったモノと人の間の存在とは不思議なもので、肌の紅潮は見られるらしい。目の際を示しながら揶揄すると、儚げだった表情に皺が寄った。やれ、黙っていればなんとやら。
「デ、何ナノコレハ」
「おやおや！　そんな性格では首飾りの贈り物のひとつやふたつやみっつ、無かったものかな。これは失礼をば」
「ワ・カ・ル・ワ・ヨ！　ソノ意味合イヲ踏マエテ聞イテイルノ！」
　きいきいと喚いているところを見るに、多少は立ち直ったと思っていいだろう。小さな手を引き、石のついたペンダントをその中に落とす。少し驚いた風の顔を覗き込むと、皺が寄ったままの眉間に軽く触れた。
「幸せを見逃すよ」
「……見落トスホドオチテナイワ」
「目を背けたら落ちているものも見えないに決まっているだろう。青は成功の色とも言う」
「アンタガソンナモノ信ジテルナンテ意外ダワ」
「縋りたくもなるさ」
肩をすくめてみせると、くすりと笑う気配。
「……物ヲ持チタクナイノヨ」
「うん？」
「怖イジャナイ」
　初めての弱音だった。
「ココデ良イト思ウカモシレナイ自分ガ、怖イジャナイ」
「与えられたいのなら、受け入れるべきさ。愛されたいのなら、信じるべきだ。綺麗事だ。戯れ言だ。間違いだ。だがそれこそが通行証だ」
「目的地ガ違ッテイタラドウスルノヨ」
「終点で折り返すさ」
「……幸セニナルタメノ切符、ネエ」
　いつか訪れるであろう命の足音を信じて。青い石は、見知らぬ末路への挑戦状でもあるのだ。
（それが間違いだと知りながら僕らは進む）

ｂ．プリズム

　終盤は、辛さすら通り越して正直億劫だったのだ。諦め、だったのかもしれない。希望を握り締めたスタート地点、程なくして絶望を持ち帰り、次こそはと思い直しまた繰り返すそれは、精神を疲労させる要因には充分過ぎた。見えない涙の川を泳ぎ切った感覚だ。
　だからまさか、こんなにも呆気なく悪夢が終わりを迎えるだなんて。
（嬉しい……けど。なんだか拍子抜けだわ）
　これだけ苦しんだのだから幸せは嵩ましになるのかしらと思いきや、そういうわけでもないらしい。
　彼の隣。望んだ位置。
（あの男も、思い通りの結果になったのかしら）
　何度目か分からない皮肉をたたきあって別れた横顔を思い浮かべる。童話に必要性を感じられない今、戻る理由も無い。当然、安否など確認しようがなかった。
「どうかしたかい？」
「何でもないわ。今日は良い天気ね」
「そうだね、エリーザベト」
「……ええ、メル」
　其処は確かに望んだ位置。彼の、『隣』。
　嵩ましどころか、合格ライン以下だというのは、傲慢なのだろうか。
（贅沢…我儘…でも…。ううん、成功したのは私だけで、あの男はまた童話の外かもしれない。それに比べたら、幸せなんだわ、ずっと）
　幸せなのよ、ともう一度声に出さずに呟く。
　最早会う術の無い男を介して、私は私に同情した。
（私は、どこかで、間違えたのカしラ？）

ｃ．相死相哀

「まず愛の理想形というのは」
　右手を取って、顎を引く。
「相手ヲ知ルコト」
「そうかな？」
「他人ハ愛セナイワ」
「愛したって他人さ」
　視線を合わせたら右足を後ろへ。次いで左。
「私が右足を引いたら左足を前へ。そう」
「愛シタラ、恋人ニナルワ」
「恋人にならない愛もあるさ」
「ソレハ愛トハ呼バナインジャナイノ」
　繰り返し、一・二・三、一・二・三。
「『恋人』とは想いを添い遂げた結果のパターンの一つさ。完成させない愛もある」
　アウトサイドチェンジをしたら下がった足を軸にワンターン。
　軽やかに、優雅に。
「何故人ハ未完成ノママデイルノ？」
「それは形式より優先すべき理由があるからさ」
「ジャ何故人ハソレデモ満足スルノ？」
「それは愛が形の無いものだからさ」
「ジャ何故形ノ無イモノガ重宝サレルノ？」
「それは捻れた美意識があるからさ」
　ぴんと伸びきった手の先を重ねて、数秒キープ。
　重心は左側。
「ターンした方向と逆に身を捩って、腕の中に戻る。お分かりかな？」
「ワカッタワ」
「それは重畳」
「ソレハ愛ジャナイ」
「……んん？」
　指を絡めて肩に沿わせて、最初のポージング。
「ソレハ、恋ダワ」
「……そんな幼稚な物では無い」
「嘘ツキ。図星カシラア？」
　本当は一度愛されたからもう良いんでしょう？
　逢えたからもう良いんでしょう？
　其処に戻るために愛を語るそれは、上書きした美しい唄。
　過ぎ去ったゴールデンデイズを歌い上げる賛美歌。
「モウ一度ゴ教授願エルカシラ？」
　挑発的な視線と艶めかしい唇。
　知を蓄積しつつある踊り子は、酷く可憐だった。
（ナンセンス！）

ｄ．知恵の輪

「ソウ都合良ク、変エラレッコ無イワ」
　身丈一メートルも無い少女を前に、向かい合って座っている椅子の上。イドルフリートは不機嫌を隠すこともなく舌打ちをした。一進一退の会話への対応にも飽き、足を組み直す。
「その台詞、そっくり君に返そう」
「……違ウモノ」
「何が」
「私ハ、貴方トハ違ウ。……メルハ、気ヅイテクレル」
　アンナ女ノ戯言カラ、イツカ、と続いた言葉は視線と一緒に床に落ちた。自棄になっていることは分かっているのだろう、それ以降は声にはならず再び沈黙が訪れた。漸く否定以外の単語が聞けたというのに、また振りだしだ。
（だからガキは嫌いなんだ）
　忌々しげに後頭部を掻いて立ち上がると、少女の顎を取って無理矢理視線を合わせた。
「今更、一向に変わらない結末に絶望したところでどうしようもあるまい」
「ッ、モウ期待シテ辛イ思イヲスルノハ嫌！」
「耳障りだな、声のトーンを落とし給え。だから最初に言っただろう。『童話は不完全だからこそ捩じ込める隙がある。それを利用する』と。繰り返すことを望んだのは他ならぬ君だ」
「……分カッテイルワヨ」
　では選びたまえと促すと、整った顔がくしゃりと歪んだ。繰り返した末の悪夢を厭いノーと答えたところで、このまま朽ちるだけ。心が悲鳴を上げても、果報は歩み寄っては来ない。複雑な輪廻が、いつかは自分の都合の良いエンディングになると。そう信じることでしか現状を保てないのは、私も同じなのだから。
（そして紡がれる七度目の答えは）

シガレット

　火が付いていないまま咥えると、指先で葉先を揉んだ。じわりと広がる温度は、落ち葉の上に手を翳したときの仄温かい感覚に似ている。発火していない屑がほろほろとこぼれた。
　吸ってみるかねと問うと、意外たるや、無言で伸ばされた手がその煙草を持ち去った。おや、と見守ると、すぼめられる小さな陶器の唇に押し当てられるそれ。僅かに歪められた目元から察するに、気分の良いものでは無いと判断したらしい。
　もう結構だと言わんばかりに胸元に返された煙草を再度口に戻してから、お子様には早かったかなとせせら笑ってやった。アンタが口にした後だから気分が悪いんだわ、と、少女はうっすらと笑う。その唇には咥えたときに付着したのであろう葉屑が付いていた。
　指摘すると、細められた目を一層切れ目にさせ、親の仇のように袖で拭い取った。行動を起こしたのは君だろうに、と揶揄すると、持ちかけたのはそっちじゃない、とますます顔を顰めた。
　責任転嫁。滑稽なものだ。
　じり、と火に近づける。
　ようやく炎を得た煙草は、吸い込んだ息の分だけせっせと労働に励んでくれ、灰を生産した。まるで私がこの小さな煌めきを生み出しているようだと、相も変わらず不機嫌そうな少女に向かって煙を吐いた。離れて頂戴と言うものの、夜風が吹き込むこの場では、どのみち煙が充満してしまうだろう。そもそもこうした喫煙も久々で、これほど単純な行為だったかと疑問に思った。口の中にあふれるのは死者から息吹を得た蒸気だけで、これが何に繋がるのかは分からない。
　その火は二度死ぬんだわ、と嘲るような声。
　生を与えている主が、そもそも死者なんですもの、と。
　自分が合わなかった行為を私が容易くこなしていることが癪なのか、つらつらとケチをつけ始めた少女に向かって、ぼあっと煙を吐いてやった。顔面に。
蛙が潰れたような悲鳴を上げ後ずさる姿に満足し、クツクツと笑う。もう一度吸い込んだ煙を、今度はゆっくりと嚥下する。
　舌打ちをしてなおこちらを睨みつける少女は、自分がこの場を去るという考えには至らないらしい。すう、と気管を滑り落ちた炎が、内部からじくじくと身体を焼いてゆく感覚がした。
　途端、けほ、と音を立ててその半分ほどを吐き出した。
　少女はまだ動かない。が、その瞳がサディスティックに歪む。

　――ねえ、もう一度貸して。
　小さな指が赤い唇に添えられる。

　――今とても気分が良いの。
　今度はこちらが苦々しげに顔を歪める番だった。

　むせても知らんぞ。と、口内に残った煙を吐き出す。随分と趣味の悪い。宵闇色の砂糖菓子がお似合いじゃないのか。
　趣味の悪さなら、人のことを言えた義理じゃないでしょうに。人差し指と親指でつまみあげた煙草の下で、少女は言った。それはそれは楽しそうに。
　面白くない気分だったので、咥えられた反対側を、ぐ、と親指で押した。じり、と肌が焼ける臭い。琥珀色雑じりの硝子球は軽く見開かれたようだが、そのまま。
　痛覚の無い身体ゆえ痛みを憶えることは無いが、それでも炎はじわじわと皮膚を蝕んでゆく。向かいでは緩く咥えられた唇の隙間から煙が漏れ出ていた。咥えている本人は表情一つ変えない。
　冷えた空間には、葉が焼けた臭いと、焼死体の臭いに近いものが充満していた。
　お互いに無言のまま、息を吐き、煙を吐き、指を推し進める。ときたま夜風がその煙を掠め取っていった。がらんとした空虚。言葉ひとつ無いまま煙草の橋渡しをしている奇妙な光景以外は、随分と神秘的だ。申し訳程度に用意されたかのような森と泉。ランプ代わりの星々。それから、月。
　唯一の新しい生命である炎は命の刻限を前倒しにされ、もはや親指と唇の間には二センチと残っていなかった。火が近づいていたことに気付いたのか。ふと唇の力が緩められ、均衡を保っていた橋はあっけなく地面に落ちる。行き場を無くした爛れた親指を見て、今度は表情に火が付いた。

　――あっという間だったわ。残念。また、貴方の咳き込む姿を見ようと思ったのに。

　良いおもちゃを見つけたとでも言いたげな目に先手を打つように、もう無いぞ、あれきりだ、と早口に告げる。あら残念、とさして残念がっている風でもない少女の唇に、おもむろに親指を押し付けた。滑らかな動作でその輪郭をなぞる。嫌がる様子でもなく、甘んじている姿に訝しげに眉を潜めると、したり顔で笑われた。

　――わたし、貴方が嫌いだけど、それ、凄く良い。好きだわ。

　高揚した面持ちの少女に、余計なエサを与えてしまったようだと嘆息した。
　やはり、また煙草を探さねばならない。私は生命の灯されていない、死んだ吐息を大形に吐き出した。

死なばもろとも／主人公のいない物語／シガレット